あの日、何を報じたか1945/7/8【敵の武器で敵を撃つ 焼夷弾々片を鍬に再生】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈敵機がまいた憎むべき焼夷弾々片を農機具に生かし、復仇生産への弾丸として投げつけようという痛快な増産計画が国民義勇隊福岡県本部で進められている。醜翼が郷土暴爆にバラ撒いた焼夷弾々片は県下各地に残骸をさらしているが、国民義勇隊福岡県本部では、副本部長香椎中将の思いつきからこれを鍬に再生、敵の武器をもって敵を撃つ「増産武器」として食糧生産陣に活用することになった〉

 焼夷弾のかけらを集め、その他の鉄回収品と合わせて鍛冶職人に依頼して〈増産がしたくても肝腎の鍬がなく困っているものへ実費で配布〉という計画だ。

 記事によると、この取り組みは〈国民義勇隊福岡県本部では、副本部長香椎中将の思いつきから〉だった。国民義勇隊は本土決戦に備え、地域や職場ごとに結成された組織。その福岡県本部の副本部長を務めたのが、あの「香椎中将」だったことは、あまり知られていない。

 香椎中将-。氏名は香椎浩平、その名前にぴんとくる方もいるかもしれない。日本陸軍の元「中将」だったのは1936年まで。同年、青年将校らがクーデターを企図した「二・二六事件」で戒厳令下の東京で戒厳司令官を務め、ラジオで反乱部隊に「兵に告ぐ」と原隊復帰を求めた福岡県出身の人物だ。

 香椎氏は事件後、責を負い予備役に転ぜられた。それから9年後の表舞台。就任を報じる2日付の記事は〈「兵に告ぐ」の情理をつくした諭告を出し帝都に流血の惨をみることなく、あの大事件を無事切り抜けたことはわれわれの記憶に新たなところ〉とたたえていた。

 焼夷弾の破片から鍬を生む「作戦」について、香椎副本部長のコメントが載っている。〈日露戦争ではハンゴの蓋で円匙(※シャベルのこと)の代わりを急造、陣地を構築して敵と戦い、そして勝った。(中略)これと同じ戦勝への手段だと信じる〉

 香椎氏は1954年12月3日、73歳で死去。翌4日付朝刊の訃報記事に、義勇隊のくだりはない。

 〈二・二六事件の際、戒厳司令官として反乱部隊に有名な「兵に告ぐ」の布告を出し事態の収拾に当たり、その後、責を取って退役。熊本第六師団長、支那駐屯軍司令官を歴任、退役後は郷里に帰って嘉穂郡碓井町昭嘉炭鉱職員をしていた〉(福間慎一)

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