1955年8月、原水禁世界大会 原爆を背負って(25)

西日本新聞

 ビキニ被曝(ひばく)を機に東京・杉並の主婦から始まった水爆禁止の署名運動は、爆発的に広がりました。国民的な世論の高まりを受け、原水爆禁止署名運動全国協議会は原水爆禁止世界大会の開催を決めます。

 大会は1955年8月、広島で行われました。被爆地で開催された背景には「原水禁運動には原爆被爆者の存在と救護の視点が欠けている」と訴えた藤居平一さんら広島の思いがありました。藤居さんは被爆者ではないですが、原爆で父と妹を失い「まどうてくれ(償ってくれ)」と先頭に立って国に求めた人物。後に結成される日本原水爆被害者団体協議会の初代事務局長を務め、私もお世話になりました。

 世界大会には、46都道府県の代表や労働組合、婦人、宗教、文化などあらゆる団体のほか、海外14カ国から52人の代表が集いました。参加者は5千人を超えたといいます。最終日に採択された大会宣言は「原水爆被害者の不幸な実相は広く世界に知られなければなりません。その救済は世界的な救済運動を通じて急がなければなりません」と、初めて原水禁運動の軸に被爆者救済を位置づけたのです。

広島市で開かれた原水爆禁止世界大会

 大会では長崎から参加した山口美佐子さんがあいさつしました。「15歳で原爆を受け、母、弟を亡くしました。あの日から10年、毎日が苦しかった。何度死のうと思ったことでしょう。けれど、私たちが死んだら誰がこの苦しみを世界に知らせてくれるのですか」。話す方も聞く方も初めて。泣きながら途切れ途切れに語る姿に、みな涙をこらえ切れなかったそうです。

 世界大会に参加した被爆者は、各地で連帯していきました。私の周りも大きく動き始めます。美佐子さんたちは、同じ月に長野県で開かれた原水爆反対集会に山口仙二さんを誘いました。仙二さんは、長野で積もり積もった悲しみや苦しみをはき出し、「原爆乙女」たちが広島で感じた熱気や共感、感動を体験します。

 長崎に戻った仙二さんは、私に言いました。「原水禁運動を一緒にやろう」。自分を苦しめる原爆に反対するためならと、応じました。仙二さんと私をはじめ、長崎大で整形手術を受けた患者の会の14人が集い、長崎原爆青年会が発足しました。55年10月1日のことです。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募り、目標金額は達成されました。

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