青年と乙女の「結婚」 原爆を背負って(26)

西日本新聞

 長崎原爆青年会が結成されたとき、すでに「長崎原爆乙女の会」が活動していました。原爆で下半身不随になった渡辺千恵子さん(1993年、64歳で死去)の家に集い、恋愛や結婚など人には言えない悩みを打ち明けていた女性たちです。広島の原水爆禁止世界大会で体験を語ったのも乙女の会のメンバーでした。

 乙女の会は世界大会直前の55年7月20日、機関紙「原爆だより」の発行を始めています。わら半紙にガリ版刷りの貧しいものでしたが、自治会などに配って支援を呼び掛けました。第1号の編集後記に乙女たちの決意が書かれています。

 「ケロイドや斗(闘)病生活から気がねや結婚問題等々人にもいえぬほんとうのつらさというものを私たちはこの十年続けてきた。いつの間にかもののいえない病気にかかっていた。社会が受入れてくれないからだとぐちのみこぼしてもはじまらないということが今になってわかった。『原爆便り』の編集で再出発したい」

長崎原爆青年乙女の会で行った海水浴。みな楽しそうに笑っています

 55年10月に活動を始めた青年会は、結成直後から乙女の会と行動を共にします。10月10日の原爆だより第4号には「青年会誕生」のニュースが載りました。メンバーは夜に千恵子さんの家で仕事や結婚の問題、原水爆廃絶のための運動を語り合いました。

 一緒に行動するうち、自然と一つになろうという話が出ました。56年5月、青年会と乙女の会が“結婚”して「長崎原爆青年乙女の会」が発足し、新聞でも報道されました。会長は山口仙二さん、副会長は私がなりました。「乙女の中に青年が入っていく」と男連中で冗談を言い、笑い合ったのを覚えています。このあと「原爆だより」は「ながさき」に名前を変え、10年ほど発行を続けました。

 忘れられないのは、56年夏にみんなで行った海水浴。長崎市郊外にある茂木町の青年団や婦人会が協力してくれ、人目に付かない場所に船で連れて行ってもらいました。

 私がそうだったように、体に傷が残る被爆者は白い目で見られるのが怖くて人前で水着姿になることができなかった。被爆者同士なら、何の気兼ねもいりません。みな子どもに戻ったようにはしゃぎました。仕事で抜けた私は写っていませんが、楽しそうに笑うメンバーの写真が残っています。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募り、目標金額は達成されました。

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