世界へのあいさつ、歴史的な日 原爆を背負って(29)

西日本新聞

 原水爆禁止世界大会2日目の1956年8月10日、私が話す番がやってきました。長崎市役所別館の場所にあったれんが造りの商工会議所。職域別に開かれた分科会で、全国から集まった電報・電話局の職員100人を前に体験を語りました。

 あの日のこと、3年7カ月に及んだ入院生活、背中の痛み…。苦しみやうらみつらみが、せきを切ったようにこぼれ出ました。大勢の前で話すのは初めてで、うまく話せた自信はありません。それでも、参加者は大きな拍手を寄せてくれました。

 この日は被爆者にとって、歴史的な日になりました。長崎国際文化会館に全国の被爆者800人余りが集まり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されたのです。最初の代表委員には長崎の杉本亀吉さんと小佐々八郎さん、広島の鈴川貫一さんと森滝市郎さん、事務局長に藤居平一さんがなりました。

長崎国際文化会館で開かれた日本原水爆被害者団体協議会の結成大会=原水爆禁止日本協議会提供

 当時、都道府県単位で被爆者団体があったのは長崎と広島、ほかに福岡、東京、長野など数県。全国の被爆者の多くはまだ口をつぐんでいたのです。全国組織の結成が、散り散りになっていた被爆者たちの心の支えになったことは間違いありません。事実、この後、各地で次々と被爆者団体が組織され、日本被団協に加盟していきました。

 発足集会では、広島大教授だった森滝さんが、結成宣言「世界への挨拶(あいさつ)」を読み上げました。森滝さんは「あの瞬間に死ななかった私たちが今やっと立ち上がって集まった」と述べ、「世界に訴えるべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり、互いに相救う道を講ずる」と世界に被爆者の思いを披歴しました。

 こうも訴えました。「私たちの体験を通して、人類の危機を救おうという決意を誓い合った」。今も続く「原爆被害への国家補償」と「核兵器廃絶」の要求理念はこのとき確立されたのです。

 56年9月、第1回代表者・理事会が開かれ、被団協として原爆被害者援護法案要綱を検討しました。治療費の全額国庫負担、国費による健康管理、犠牲者に対する弔慰金と遺族年金制度の制定など五つの要求を決定。日本被団協はその後、原水爆禁止日本協議会と連帯し、国に立法化を求めていきました。原爆医療法ができるのは57年4月のことです。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募り、目標金額は達成されました。

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