«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)

西日本新聞

 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》

 1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。須磨子さんは23歳のとき、爆心地から1・8キロ地点で被爆。高熱や脱毛など後遺症に苦しみ、紅斑症にもかかります。身体的、精神的苦痛と生活苦にさいなまれる日々…。3千万円の巨費を投じて造られた平和祈念像を見て、この詩を詠みました。

 電報配達中に須磨子さんの家に寄り、いろいろ雑談していた私は、彼女の窮状をよく知っています。でも、苦しむ被爆者は彼女だけではありませんでした。公的な援護措置がなかったからです。被爆者を救済するため、日本被団協は56年の結成直後から、国に原爆被害への補償を求めていきました。

後遺症に苦しみながら反核運動を続けた福田須磨子さん=長崎の証言の会提供

 被爆者を救おうという世論の高まりを受け、国は57年4月、「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」を施行。戦後12年、ようやく被爆者は国費で健康診断と原爆症の治療を受けられるようになったんです。私も医療費を心配する必要はなくなった。ビキニ被曝(ばく)から3年、運動の成果を実感しました。

 でも、申請は予想より少なかった。メリットが乏しかったからです。医療費が無料になるのは、原爆放射線を原因とする「原爆症」と認められた場合だけ。被爆者健康手帳の交付を受けた人は57年度で20万984人ですが、原爆症に認定されたのはわずか1668人。一般戦災者と区別するため、国は厳しい認定基準を設けたんです。被爆者への差別や偏見から申請しない人もいました。

 さらに問題だったのは、生活の保障が抜け落ちていたことです。原爆による障害や病気で働けず、働けても続けるのが難しい。見た目は何ともなくても疲れやすく、人並みに働けない「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる人たちもたくさんいました。それが被爆者の実態だったんです。

 原爆医療法は私たちが初めて手にした法律でしたが、援護の充実を求める闘いの始まりでもありました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募り、目標金額は達成されました。

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