妻・栄子さんとの出会い 原爆を背負って(33)

西日本新聞

 「どうってことない女だな」「いばりくさっとる」。それが私と妻栄子(83)が抱いたお互いの第一印象です。1956年3月1日、私たちは見合いをしました。私が27歳、栄子は25歳。長崎での原水爆禁止世界大会を控え、運動が熱を帯びていた時期でした。しばらく家族について話したいと思います。

 失恋して、死のうとしたことは既に話しました。その後もじいさんが見合い相手を何人も探してくれましたが、5、6人に断られた。私が被爆者だったからです。背中のこともあるし、いつまで生きられるか分からない。結婚はもうあきらめていましたが、気掛かりなことがありました。母親代わりだったタガばあさんが、もう長くないと言われていたんです。1年前から寝たきりの状態で「すみに嫁が来てない」と、うわ言のように繰り返していました。

 ばあさんに頼み込まれた伯母が紹介したのが、栄子でした。栄子は韓国生まれ。戦後、父親の実家があった長崎県時津町に引き揚げてきました。見合いをしたのは、彼女が泊まり込みで働いていた長崎市浜町の回転焼きの店。ほとんど言葉を交わさず、「くれんね」と言って回転焼きを何個か買って帰ったと思います。

自宅で開いた結婚式。奥にぶすっとした表情の栄子が写っています

 このとき栄子は仕事や実家の農業の手伝いで忙しく、結婚する気はなかったそうです。心に傷を負っていた私も乗り気じゃなかった。でも、伯母の押しに負けたのか、栄子は承諾。ばあさんを早く安心させたかった私も結婚を決めました。

 出会って10日目でした。稲佐山の中腹にあった私の家で挙式です。電報局の同僚も来てくれました。栄子は緊張からか、終始ぶすっとしていましたね。一方、私の胸には不安が渦巻いていた。「伯母はどこまで俺のことを伝えとるとやろうか」。そう思っていたんです。式の後、隣の部屋で寝ていたばあさんのところに二人で行きました。ばあさんは栄子の手を握り、「すみを頼むよ」と目に涙を浮かべて言いました。

 翌日、新婚旅行で雲仙に行くことになっていた私たちを、同僚がバス停まで見送りに来てくれました。気の置けない友人です。私のことはすべて話していました。彼は出発間際に栄子に駆け寄り、「稜曄(すみてる)のことをよろしくお願いします」と頭を下げた。栄子は困惑した表情を浮かべていました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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