平野啓一郎 「本心」 連載第298回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「言葉に出来ないくらい幸せです!

 朔也(さくや)さんには、本当にお世話になりました。彩花さんを紹介してくださって、心から感謝しています。また会った時に、ゆっくりお話しさせてください。

 仕事ですが、差し支えなければ、明日からまた出勤してほしいのですが、予定はいかがでしょうか? 二週間も空いてしまい、すみませんでした。朔也さんに、以前に相談していた慈善事業の方を手伝ってもらいたいと思っています。」

 僕は、それでもイフィーの本心に、幾(いく)ばくかの疑念を抱いていた。が、返信には、ただ、

「三好さんからも聞いてます。よかったですね。紹介者として、僕も嬉(うれ)しいです。

 仕事の件、改めて相談させてください。今週前半は予定があり、出来れば、水曜日から、また出勤したいのですが。」

 と手短に書いた。

 イフィーからは、すぐに折り返し、承諾の連絡があった。

 本当に水曜日から、三好がいるイフィーの自宅に出勤する生活が、新たに始まるのだろうか?

 

 三好の提案で、僕たちはその晩、久しぶりに豆乳鍋を食べた。

 一緒に買い物に行き、料理をした。頬が悴(かじか)むような寒い日で、僕は買い物袋を持つ手を時折入れ替えては、空いた方の手をポケットの中で温めた。

「ここで初めてこの鍋作ったのも、半年前かー。なんか、時間が経(た)つの、速かったけど、遠い昔のことのような気もする。……わたし、避難所からここに移ってきてすぐ、お腹(なか)壊したよね? 朔也君に数日、看病してもらって。」

「そうでしたね。腸炎でした。」

 僕たちは、煮立った湯気を挟んで、思い出話に耽(ふけ)った。二人で缶ビールを注(つ)ぎ合って飲んだ。

 豆乳鍋を食べたのは、メロンの一件のあとで、酷(ひど)く疲弊していた日だった。それからしばらくは、古紙回収の仕事をしていたが、あの日々を、<母>とだけで過ごしていたならば、僕は、どんなに惨めだっただろうか。

 僕は彼女の存在から、既に十分に、恩恵を受けていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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