辺境の診療所から(1) 諸団体撤退と患者急増、青息吐息…支援母体の財政難も【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 一九九二年度は日本側の支援母体ペシャワール会(福岡市)と現地JAMS(日本―アフガン・医療サービス)にとって、大きな試練の年となった。突然の大量の難民帰還に合わせて現地活動も急速に活発化した。

 九二年度の上半期だけで診療患者数は五万人を突破、現地スタッフも八十人に増え、必要薬品量とともに倍増した。アフガニスタンのダラエ・ヌール診療所だけではなく、パキスタンのペシャワール側の診療所でも患者数が爆発的に増えた。

わずか4施設残る

 これは大方のNGO(非政府組織)が活動停止または規模縮小したためで、アフガニスタン東部で実質的に医療活動をしていたのは我々JAMSだけだったと言っても誇張ではない。ペシャワールでも、事実上残った難民医療団体は僅か四施設で、冬を前に未帰還難民はいまだに約半数の百万人以上がパキスタン北西辺境州に留まっていた。次の年の春には第二次の大量帰還が予測されたが、パキスタン側での越冬はやむを得ず、残った僅かな医療施設に病人が殺到したのである(九三年二月までには、国際赤十字も引き揚げ、ペシャワールで事実上活動する難民診療機関はJAMSのみとなった)。

綱渡り操業の補給

 一方、日本側の貧しいが唯一とも言える支援母体・ペシャワール会も、財政的補給に青息吐息であった。現地情勢に合わせて、九二年度の現地活動予算四千九百万円を計上、背水の陣を敷いた。このため国内活動を強化し、同年四月から十月までの六カ月間で独力二千万円以上の現地補給を行った。国内の“アフガニスタン”への関心は薄れており、巷では「バブル崩壊」で景気後退がささやかれる中である。専従もいない地方の一グループが、補助金なしにこれだけの補給を達成するのは容易なことではなく、会の事務局員は募金活動のために過重な負担に耐えた。もはや限界に近かった。しかし、会の必死の努力は、しばしば日本側でも理解されず、ペシャワール側にも伝わりにくかった。諸外国NGOの派手な活動を見てきた現地では、最も親近感を持つ「大国日本」の団体が綱渡り操業で補給を支えているなど、どうしても想像できなかったのである。

内部の診療は充実

 アフガニスタン内部では着々と診療態勢の充実が図られていた。ダラエ・ヌール渓谷では常時十二人のスタッフが交代で配置され、医師を二人に増員し、月間五千人の患者診療を可能にした。難民帰還に伴って七月からマラリアが猖獗(しょうけつ)を極め、しかも約半数が通常の薬剤の効かぬ耐性の悪性マラリアで、栄養不足の小児を中心に犠牲者が続出したからである。決して大規模ではないダラエ・ヌール渓谷(推定人口七万)だけで、日に二百人以上の患者が殺到した。アフガニスタン内部は絶対的な薬品の欠乏で、一般庶民は鎮痛剤さえ高根の花という有様であったから、この小さな診療所がどれだけ地域住民に感謝をもって受けとめられたか想像できよう。

 十人のスタッフで編成された別の一隊はさらに奥地のダラエ・ピーチに進み、予定通り次の診療所建設に向かおうとしていた。新しいアフガニスタン政権との公式契約を取り付けるために、カブールにも出先機関を置かざるを得なくなる事も考えられた。これは予測された新情勢であったが、日本側からの補給欠乏の為に予定をなるべく延期させ、規模を最小限度に抑えさせた。だが、はた目にはそれと分からなかったが、JAMSの組織的活動は一つの限界に達しつつあったのである。

 十一月四日、開設予定地の住民との具体的交渉を開始するため、主要メンバーを伴って私はダラエ・ヌールから現地に向かった。ダラエ・ピーチでも戦闘は完全に停止し、住民の大半は帰郷していた。ダラエ・ピーチこそは、ハンセン病根絶計画の上で最大の標的であったし、政治勢力が弱体化した当時、礎石を置くには最も時宜に適った拡大と考えられたからである。しかし、これを通して、当方の甘さと、JAMS内部の問題を反省させられることになった。


 なかむら・てつ=医師。一九四六年福岡市生まれ。九州大卒、英国の熱帯医学校で研修。八四年、パキスタンのペシャワール・ミッション病院・ハンセン病病棟に赴任。八六年、アフガン人医師らとJAMSを設立、アフガン難民自立のための医療プロジェクトに取り組む。著書に「ペシャワールにて」「アフガニスタンの診療所から」など。

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