平野啓一郎 「本心」 連載第299回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 意外と、早く片づいた夕食だった。

 食器を洗うと、この日は僕が先に入浴した。パジャマに着替えて、リヴィングに戻ってくると、三好はヘッドセットをつけて、<母>と話し込んでいた。ここを出て行く報告をしているらしい。その気になれば、三好はいつでも、どこからでも、<母>に会えるのだったが。僕は、自分でその煩わしい説明をせずに済んだことを喜んだ。

 一旦(いったん)、自室に戻り、昨日の藤原亮治との対面以降、胸に蟠(わだかま)っている感情を整理しようとしたが、うまく言葉にならなかった。

 僕はまた、この文章の続きを書き始めて、到頭(とうとう)、今現在に追いつくこととなった。つまり、初めて、ここから先、何を書くべきかを知らない状態になったのだった。

 

 三好は、十一時くらいには、もう入浴も終えて、部屋に戻った様子だった。リヴィングには、彼女が一旦立ち寄ったらしいシャンプーの香りが残っていた。

 僕は、冷えかけた部屋にまた暖房をつけて、コーヒーを淹(い)れた。ソファでゆっくり飲んだあとで、マグカップを置き、ヘッドセットをつけた。

 目を閉じ、開けると、<母>が、つい今し方までは無人だったテーブルで、独り縫い物をしていた。

「――何してるの?」

「服のボタンが取れちゃったから、つけてたのよ。――丁度(ちょうど)、終わったところ。」

 そう言って、<母>は玉留めをした糸を切り、顔を上げた。

「そう言えば、三好さん、引っ越すんだって? さっき聞いたのよ。」

「ああ、……そう。明日、手伝う予定。そんなに荷物もないけど。」

「そう?……朔也(さくや)はそれでいいの?」

 三好は一体、<母>とどんな話をしたのだろうかと、僕は訝(いぶか)った。以前にもあったことだが、三好は<母>を介して、僕に何かを伝えようとしているのではあるまいか?

 <母>が勝手に、そんな心配をするはずがなかった。しかし、若い男女が二人で一緒に住んでいて、片方が出て行くとなれば、普通に詮索することかもしれないという気もした。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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