辺境の診療所から(2) タラエビーチへ 第二の診療所計画、ハンセン病根絶拠点に【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 ペシャワールからクナールの州都チャガサライ(アサダバード)まで約八時間、ここからクナール河は二つの支流に別れ、北西山岳地帯をはう長大な渓谷がダラエ・ピーチである。私たちはアフガニスタンで、ダラエ・ヌールに続き、ダラエ・ピーチの診療所建設を計画していた。同渓谷の面積はダラエ・ヌールの約十倍、広大な領域で、さらに奥地はヌーリスタンの心臓部に当たる。大小無数の山塊が延々と連なり、「ダラエ・ピーチ(曲がりくねった谷)」の名の通り、長蛇がくねるように川が続き、無数の支流が注ぎ込む。

テロ横行の地区も

 この渓谷はアラブ系のワッハーブ派が莫大な資金を使って民心を掌握し、影響力を持っていた。上部では他のイスラム党が多少の力をもっていたが、奥地に行くほど実質的な力はなく、伝統的なジルガ(長老会議)が健在であった。しかし、ほんの一年前にあったような武力衝突は影を潜め、銃器類を携行する者は少なくなっていた。

 しかし、チャガサライのバザールでは、依然として政治テロが白昼横行し、つい数日前にも食事中の客にロケット砲がうちこまれて死傷者を出したばかりだった。我々にとっては、ハンセン病根絶計画上の要衝であっても、「時期尚早」との判断を持った。そこで、我々は車両の進める限り山奥を行き、補給と人員交代を考えてジープの行ける最終地点に拠点を置くように計画した。

廃墟のような村落群

 渓谷を遡行するにつれて水は清流となり、人々は素朴となった。川沿いの耕作地は稲刈りが終わったばかりで、晩秋の寒気で木々の紅葉もちらほら見られた。およそ一キロ毎に数十戸から百戸くらいの村落があり、道路が補修された所では殆どの農民が帰郷していた。

 しかし、戦争で荒れて交通事情が悪いところでは、例の廃墟のような村落群が至る所で痛々しい残骸をさらしていた。こんな平和な山奥で何の必要があって、かくも徹底した破壊が行われたのであろう。この途方もない山道を徒歩でパキスタンに難民として逃げて行った人々の苦労を思わずにはおれなかった。

 雨の殆どないアフガニスタンの河川は、ヒンズークッシュ山脈の氷雪が水源である。従って気温の上がる夏季に水量が増し、高地で凍結する冬季には水量が減る。渡河は夏よりも容易になっていた。

 我々が伴っていたのは一人のサイード(世襲的な聖家族)の者で、同地区出身であった。彼はペシャワールに居たが、質素な生活に甘んじて人々に後ろ指をさされる事もなく、身が綺麗であった。(戦争中に多くのインテリや旧指導層が「難民ビジネス」に巻き込まれ、政治的な腐れ縁を作ったり一財産を成した者もあり、人々の信頼を失っていた)。彼はダラエ・ヌール診療所建設の直後、たまたま患者として我々を訪れ、すっかりJAMSに心酔して協力を買って出たものである。五十歳前後と思われたが、物腰に気品があった。

政治力学以上の血縁

 彼が協力を申し出たのは多少のこみいった背景がある。彼の家族は旧王族に連なるもので、アマヌラ・カーン王の時代に「反逆」のかどで一族もろともダラエ・ピーチに「島流し」された。一九六〇年、ザヒールシャー王の時代になって恩赦され、一部はカブールの近くのローガルに移ったが一部は現地に留まった。彼自身は父と共にローガルに移り、七九年、内戦の勃発でペシャワールに難を避けた。今回は活動予定地区に彼の親族が居て、「地域の信頼を得る橋渡しになろう」と、わざわざペシャワールから出向いて来てくれたのである。

 彼にしてみれば、実に三十年ぶりの帰郷ということになる。こうした無償の行為はアフガニスタンでは珍しくはないが、そう滅多にあることでもない。アフガニスタンの村落社会ではこのような血縁が何よりも強力で、表に出る政治力学以上のものがある。我々には心強かった。

(日本―アフガン医療サービス顧問医師、ペシャワール在住)

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