辺境の診療所から(4) 「覚めた目を」と自覚 故郷と民族主義の間で【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 JAMS(日本―アフガン医療サービス)の院長シャワリ医師は、自分たちの活動は欧米人とは違うのだ、アフガン人によるアフガン人の国のための活動だ、と盛んに強調した。しかし、「国」という観念が主のイッサ・カーン氏とは明らかに異なっていた。彼らにとって「くに」とは、あくまで自分たちの故郷であって、シャワリ医師の「アフガニスタン・ナショナリズム」は通用しなかった。

問題が起きたら…

 「わしは良く分からんが、ドクター・サーブ(先生)はどうして自分の『くに』、郷里(くに)パンジシェールに力を入れなさらぬか。勿論わしはここに診療所ができるのはありがたい。しかし…問題が起きるなら、ルース(ロシア人)も、アングレーズ(イギリス人)も、フランサウィ(フランス人)も、皆いやですぞ」

 たとい日本でも、外国人にトラブルを起こされるのは嫌だということなのだろう。私は黙っていた。彼はフランス人医師の一件から難民生活に至るまで、余りに多くの辛酸をなめてきたのだろう。無理からぬ心情であった。私が一言述べる番だった。

 「サーブ、私はもう五十歳近くになります。五十年前日本はアメリカ・アングレーズと大きな戦争をして国は荒れ果てました。私のくにはナガサキの近くです。子供の時の、荒れた様子はよく覚えております。神の思し召しで私はたまたまここにやってきて、他人事とは思えなくなっただけのことです。今ここに居るスタッフたちは、それぞれに自分のくにの復興の為にこんなに一生懸命です。それで力を合わせて協力しているだけです。何の下心もございません」

   ◇   ◇

 シャワリ医師は、私に決断を求めた。

 「明日ジルガ(長老会議)で私たちを皆に紹介するそうです。どうされますか」

拙速に決定できぬ

 しかし、これは明らかに拙速であった。人的物的補給が現在の状態で可能なのか、地域の情勢はどうなのか、詳しい地勢さえ知らないまま一つの決定をするのは困難である。それに日本側も極めて苦しい財政補給に耐えている。その善意を生かすためにも軽々しい決定をしてはならなかった。

 「初めの話とは違うではないか。『先ずは小さな皮膚診療所を置く』という話から、ダラエ・ヌール規模の診療所を突然開く話は年度計画にはない飛躍だ。日本側に知らされぬまま事態が進めば、財政破綻を招いてJAMSそのものが分解する。今夜中に決断するのは困難だ。今回はペシャワールに帰り、熟考してから出直そう」

 「我々はいかなる困難にも耐えるつもりです。私は一人の兵士に過ぎません。ここでやれと言われれば、テントからでも始められます。先生が決定してください。我々の命はそう問題ではありません。アフガニスタンの至るところにニーズと困難があります。困難をあげつらっていると、キリがありません。それで自分が死んでも本望です」

悲壮な決意に酔う

 私の目の狂いでなければ、彼は自分の悲壮な決意に酔っていると見えたのである。私は覚めていなければならなかった。判断を狂わすのは、状況把握の不十分さと共に、自分の限界を弁(わきま)えぬ事である。死ぬことは何時でもできる。過去十年ペシャワールで学んだことの一つは、人間は自分の死さえ虚飾で扮する事が可能な動物だということである。生も死も、意味を持たねばならない。いや、意味を持っている。しかし意味は天与のものであって人間には隠されている。我々がこの事実に謙虚であれば大きな狂いはなかろう。

 しかし、アフガニスタンの鬼気迫る実情は多くの人を狂わすのに十分な威力を持っていた。渓谷の至るところに散在する村落の残骸、果てしのないカブールでの権力闘争、イスラム過激主義の跋扈(ばっこ)、「十四年の難民としての労苦は何だったのか」という暗い自問がカブール出の人々を刹那的な感傷に追い込んでも不思議ではなかった。その心情は解らぬでもない。であればこそ、「覚めていることだ」と改めて言い聞かせたのである。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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