辺境の診療所から(5) 困難極めたキャンプ診療 JAMS「ハンセン病根絶」が出発点【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 JAMS(日本―アフガン医療サービス)の出発点は、パキスタン北西辺境州の「ハンセン病根絶計画」からである。私がペシャワールのミッション病院のハンセン病棟に正式に赴任した一九八四年五月、アフガン戦争の真っ只中で、越境する難民は北西辺境州だけで三百万人に迫りつつあり、ハンセン病コントロール計画はその影響をまともに被っていた。ハンセン病は現在では治る病気であるが、結核以上に長期の服薬を必要とし、治療中断による再発は取り返しのつかぬ結果を生みだす。我々の治療下にあった多数のアフガン人患者がペシャワールまで来ることができず、定期服薬できなくなり、悲惨な例もまれでなかった。

次々に未治療患者

 国境沿いの難民キャンプを狙い撃ちに、治療中断者と新患者を見いださねば「ハンセン病根絶計画」の成功はおぼつかなかった。同時に国境を越えて次々と現れるアフガン人の未治療患者の対策も痛感されていた。

 ハンセン病根絶計画の実質的な本部であったカラチのマリー・アデレイド・レプロシー・センターもこの点は理解していた。同団体は西ドイツのカトリック団体を主力とする組織で、パキスタンの分離独立直後から活動し、政府の医療行政に入り込み、全土の計画を支え続けてきた。この総帥がドイツ人女性のファウ医師で、自ら戦乱のアフガニスタン中で再三調査を敢行、「ハンセン病診療所」建設を画したが悉く潰えた。

まず“ALS”発足

 一方、我々はペシャワールという土地柄、多数の難民、その救援団体、反政府ゲリラ組織との接触があり、アフガニスタン情勢をじかに理解できる立場にあった。

 そこで一九八六年十月、日本側の全面支援で発足したのが、「アフガン・レプロシー・サービス(A・LS)」というアフガン人・チームである。これを基盤に我々は難民キャンプ診療に踏み込み、「アフガニスタン」について詳細な実情に触れ、やがてJAMSに改組、後の大掛かりな「農村医療計画」に突き進む契機となる。

   ◇   ◇

 八七年二月、まがりなりにも態勢を整えた我々は、初めてアフガニスタン国境地帯に進出した。当時健在であったソ連=アフガン政府軍の越境爆撃は日常茶飯事であり、国境沿いに集中する難民キャンプの調査・診療は難航を極めた。これらのキャンプは大抵「自治区」の中にあり、実態は外国人には殆ど知られていなかった。

まともな管理ムリ

 我々が狙い撃ちにしたのは、バジョウルという国境地帯の自治区にあるキャンプで、アフガニスタンのハンセン病の最多発地帯・クナール州に隣接し、当時五十万~六十万の難民が居ると見られていた。難民キャンプと言っても、反政府ムジャヘディン(戦士)・ゲリラの補給基地であり、男子成人の全てが越境して抵抗を続ける戦闘員と見てよい。まともな管理は不可能に近かった。

 ペシャワールで聞いた実情とは程遠いものであった。宣伝に反してキャンプへの援助は届かず、難民は殆ど自活していた。「難民」といっても、同一民族の居住地を移動するだけであるから、国境は無きに等しい。難民たちは自分で日干し煉瓦で泥の家を建て、密集して居住しているだけで、政治的束縛は殆どなかった。

 これら耕作・放牧のできなくなった農民にとって、唯一の収入源は、ペシャワールへの出稼ぎと共に、敵からの戦利品(とくに銃器類)や麻薬などで、支援物資の横流し品などと共に堂々とバザールで取引されていた。

外国人のお遊び…

 難民救済団体の集中するペシャワールで聞く限り、キャンプでの保健衛生活動は、「コミュニティ・ヘルスケア」だの、「母子保健栄養プログラム」だの有らゆる種類のプログラムの陳列場の観を呈していたが、実質的なものは殆どなかったと言ってよい。酷評すれば外国人のお遊びである。美しい「人道的支援」の業績報告とは余りに掛け離れていた。

(日本―アフガン医療サービス顧問医師、ペシャワール在住)

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