辺境の診療所から(6) 一方的価値観の押しつけ、難民援助でも不信拡大【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 ある時私が宿泊していた難民キャンプで、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)担当官の視察があった。普段は空っぽの施設が前日から掃き清められ、突然忙しそうに立ち働く人々が現れた。翌日、国連の担当官がランドクルーザーを連ねてやってきた。

横流しやピンハネ

 単調な生活の難民キャンプ住民は、何事かと沿道に群れていた。私も人垣に混じって見ていると、いきなり護衛の兵士から怒鳴りつけられ、家畜を追い払われるように道を空けさせられた。担当官は難民施設を訪問して「視察」し、主だった地区を訪れて写真に収め、にこにこと握手をして引き揚げて行った。その後人々の間では、「配給が増える」だの、「間もなく良い診療所ができる」だのと囁かれたが、何事も起きなかった。それどころか、診療施設は再びもぬけの空となり、誰も来なくなった。

 こんなことがごく普通にくりかえされたから、難民たちは外国人のプロジェクトに対して猜疑心を持つのが常であった。配給物資の横流しやピンはねは日常茶飯事であり、基金のかなりが組織運営に充てられ、実際に届く「人道的援助」の中身は寥々たるものであった。時折、良心的な人々が視察に来ても、短期ではせいぜいペシャワールの本部で業績を誇示され、外国人の行きやすい近辺のモデル・キャンプを見せられて帰るのがおちで、実情は伝えられなかったと言える。

異郷の束縛こそ悲惨

 通常の「短期視察」は、過剰包装の包み紙から中身を判ずるのに等しい。また、我々が地域のニーズという時に問題なのは、誰から何を聞いてそう判断したかである。アフガニスタンに関する限り、英語を使って外国人と接し得るのは極めて限られた都市知識層であり、彼らは田舎の実情など本当には殆ど知らぬことも多い。同国人でありながら、西欧化した精神構造を持っているから外国人には話が通じやすい。いきおいその口を通して外国人は「実情を理解する」ことになる。

 「この悲惨な状況を見てください」という時、それが中流以上の都市生活者の場合、まゆつばである。山岳地帯の実情を知る者は、我々の生活意識を基準にすれば悲惨であっても、当の農民たちはそれほど「悲惨」とは思っていないことが多い。一般に悲愴感は都市から逃れてきた難民に強かったが、彼らはキャンプでは皆無に近かった。

 例えば、「キャンプには電気も水もない」と嘆くのは愚かで、乗せられてはいけない。延々時間をかけて水汲みに行く光景は、アフガニスタンの山岳地帯では普通なのである。農民が大部分たる難民たちは、天下国家を論ずるでもなく、国家の将来を憂うるでもない。もともと「国家」など彼らの頭の中にはないのである。彼らの悲惨さは、決して生活の困窮そのものではなく、故郷を失い、異郷の事情に束縛されて自由に農耕・牧畜ができない「奪われた固有の生活意識」にある。

異文化理解の浅さ

 アフガン戦争の発端事態が、これらを顧慮しない強引な近代化にあったといえよう。共産主義政権によるクーデター前夜のカブールでは、都市知識層の間で農民の困窮をモチーフとする社会派の文学が流行り、多くの人々の同情を集めた。急進的改革を目指したタラキやアミン旧大統領自身が、このような正義にはやる文学青年たちであった。彼らがいかに教条的な共産主義者であろうとも、私はその素朴な正義感を笑おうとは思わない。彼らもまた、「近代化」に欺かれた犠牲者であったろう。ソ連軍の兵士とて、いくばくかの大義を心に抱いて戦っていたであろう。

 問題は、自分のものさしで他人の幸・不幸を断定し、文化や生活意識の相違を優劣で論ずることにある。あげくは越えがたい溝を作って相互不信をエスカレートさせる。この点では、アフガニスタンの近代化を急いで国土を廃墟にした正義漢たちも、難民援助に殺到した人道主義者たちも、大差が感ぜられないのである。これは極論かも知れぬが、現地で見る限り、異文化に対する我々の理解の浅薄さを身に染みて感じた。

(日本―アフガン医療サービス顧問医師、ペシャワール在住)

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