辺境の診療所から(7) 地雷の恐怖、全土に1000万発も 精神の病理を拡大再生産【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 一九八九年二月、JAMS(日本―アフガン医療サービス)の「診療員養成コース」がスタートした直後、アフガニスタン国内診療所の有力候補地のクナールでは激戦が展開していた。ソ連軍の完全撤兵に呼応して、カイバル峠のアフガニスタン側ふもとにある要衝都市、ジャララバード攻略が始まった。これは各反政府グループが共同行動した。各党派の主力はカイバル峠を越えて進出し、ジャララバード北部からはクナール河沿いに地区ゲリラ部隊が進んだ。

死傷者1万人以上

 正確な数は明らかでないが、政府軍守備隊数千人に対して、数の上からは数倍の兵力だった。米国から補給されたソ連製・中国製の火器で武装した反政府側は、地上軍をジャララバード近辺に封じたが、制空権は政府側にあり、空からの攻撃に悩まされ、推定一万人以上という多大の死傷者を出した。ジャララバード陥落はならず、攻略は延期された。これは、反政府側の内部対立、政府軍火力の過小評価はもちろん、ゲリラ戦と正規戦とでは戦術戦略の質が全く異なることがあった。

 クナール渓谷では、パキスタン側からナワ峠やミタイ峠を越えて、続々とゲリラ部隊が進攻し、内部の各地区のゲリラがこれに呼応した。その結果、政府軍はクナール河沿いの盆地からほぼ一掃され、ジャララバード近辺のシェイワまで反政府勢力の支配下に入った。

30種類もの地雷

 村落の破壊はこれによって倍加した。ジャララバード周辺地区と主要道路のまわりに地雷網が張り巡らされ、より強力な装備を与えられた反政府側の攻撃で、公共の建築物は瓦礫と化した。ことに政府軍側の無秩序な地雷埋設は厄介で、控えめな発表でアフガニスタン全土で三百五十万発と伝えられた(その後、「約一千万発」と訂正された)。

 ダラエ・ヌール渓谷に近いシェイワでは、幹線道路を囲むわずか五キロメートルの林だけで三万発の地雷が埋設されたのだから、その凄まじさは想像できよう。地雷も、時限装置付き、人間だけを感知するセンサー付き、不発弾を模したものなど、三十種類もある多様なもので、米軍がベトナム戦争中に使用したものに更に工夫が凝らされている。

 中でも警戒されたものに通称「バタフライ」がある。これは人の掌程度の大きさのプラスチック製で、名前のとおり蝶の形をしており、ピンクなどの奇麗な色で一見おもちゃのように見える。殺すよりも重傷を負わせることが目的で、破壊力は小さい。つまり、直ぐには死なず、周囲のものが介抱するので、全体の機動力を落とすという訳である。手の込んだ仕掛けは、一回触れるだけでは爆発せず、五グラムの圧を数回かけると爆発する。子供が路傍で拾い、何事もないので家に持ち帰って遊ぶうちに爆発することも多い。この「バタフライ」は明らかに非戦闘員の殺傷をも目的としたもので、数百万発が空からまかれ、一部は河の流れに乗ってペシャワールまで至り、多数の子供たちが犠牲となった。

殺傷効果を計算

 このような爆発物を考案したのは、もはや人間ではない。殺傷の効果を冷静に計算する非情な機械だ―と思いたいが、紛れもなく人間の手によって作られ、人間に対して使用されたのである。憎しみの激突する刀剣や銃砲での白兵戦なら、良いことではなくとも、まだ解りやすい。だが近代技術は、精神科医が「情性喪失」と呼ぶ病理を人類に拡大再生産したのである。

 数年後、湾岸戦争が勃発したときに私はたまたま日本に居たが、戦争をまるでファミコンでも見るようにテレビにかじりつく人々に、やるせない嫌悪感を覚えた。「戦争」はゲームではない。肉片が飛び散り、鮮血が流される、まぎれもない大量の人殺しと狂気である。瞬時に知己や肉親の生命が断たれ、生と死を分かつ。兵士もまた、或いは自分の死をも虚飾で欺き、或いはグロテスクな楽天主義と刹那主義で感性を荒廃させる。

 このような現実の中で、世界に冠たる平和憲法を戴く一小国民として、私は日本人であることを誇りに思っている。しかし、最近の日本を思うと、「戦争体験は十分には語り継がれていない」というのも哀しい実感である。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

関連記事

PR

PR