平野啓一郎 「本心」 連載第300回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「いいも何も、本人が決めることだから。」

「そうだけど、寂しくないの?」

「別に。イフィーの家で、いつでも会えるから。……お母さんもいるし、同居人が必要になったら、また、探すよ。」

 <母>は、納得したように頷(うなず)いて、それ以上は、僕を気遣うように尋ねなかった。僕は咄嗟(とっさ)に、自分の視線が、下を向いてしまったことに気がついた。<母>はそれを見て、僕が悲しんでいると判断したはずだった。

 <母>を心配させないために、僕は、意識して表情を和らげた。そして、

「藤原亮治さんに会ってきたよ。」

 と切り出した。<母>は、パッと音がしそうなほどに、たちまち笑顔になった。

「その話を聞きたかったのよ。どうだった?」

「うん、……すごく親切だった。お母さんのことも、懐かしがってたよ。」

「あら、そう? お母さんのこと、覚えてくれていたの?」

 <母>は少し驚いたような、探るような目つきで尋ねた。

「うん。……お母さん、昔あの人と親しくつきあってたんだって。八年間。僕が小学生の頃まで。」

 僕は憚(はばか)りから、やや曖昧な言い方をしたが、<母>はその言い回しを理解できない様子だった。

「愛人だったんだって、藤原さんの。」

「ごめんなさい、お母さん、ちょっとよく、わからないのよ。」

「……お母さんが、藤原さんと、恋人としてつきあってたってこと。藤原さんには家族がいたけど。」

「そうなの。……」

 「恋人」というのは、母と藤原との曖昧な関係を表現するには、恐らく不適当で、二人は寧(むし)ろ、そう呼ばれるべき関係を慎重に避けていたようだが、僕は<母>の中のAIに理解させるために、敢(あ)えてそう単純化した。それでも、<母>の表情は、滑稽なほどちぐはぐで、哀れを催させた。

 僕は、しばらく黙っていたが、ふと思い立って、こんな提案をした。

「お母さん、これから、滝を見に行かない?」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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