辺境の診療所から(8) イスラム戦士、村と血族守る戦い JAMS活動にも協力【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 ダラエ・ヌールでは、JAMS(日本―アフガン医療サービス)の渓谷出身スタッフも地区ゲリラとして戦闘に従事していた。渓谷下流域からクナール河を挟んで標高五百メートル程の高地が正面にあり、その頂から発せられる政府軍の砲弾はゲリラ部隊の南下を寄せ付けなかった。空からは連日へリコプターが舞って機銃弾を浴びせ、戦車隊まで投入して下流域の保持を図った。

リトル・モスクワ

 ソ連軍撤退まで、この谷の下流はゲリラたちに「リトル・モスクワ」と呼ばれ、近隣地帯制圧の軍事基地や管理施設があった。地域を熟知する共産党員がカブールから配属されて力をもち、巧みに各地域を分裂させて政府軍支配を助けた。

 一九八九年夏までには、シェイワ高地の軍事基地を除いて、ダラエ・ヌール渓谷全体から政府軍が駆逐されたが、なお散発的な爆撃が続いた。

 このため、対空砲火器が搬入され、南下を阻止された軍民が逆に防衛的な立場になっていた。一部難民は様子を見るためにゲリラと共に三々五々帰郷し、荒れた土地の修復を始める者もでてきた(というより、ゲリラそのものが難民である場合が多かった)。

   ◇   ◇

 日本人に分かりにくいものの一つが「ムジャヘディン(イスラムの聖戦士)」である。政治的なイスラム主義の横行で、猛々しい狂信的イメージだけが定着しているようだが、決してそうではない。元来これは、イスラム教徒に課せられた「六信五行」の義務の一つ、ジハード(聖戦)に参加する者のことを言う。即ち、外敵から自分の信仰を守るために戦うもののことであって、何らかの政治思想とは無縁のものである。内戦の初期、旧ソ連―アフガン政府軍が「神はいない」などと公言してはばからず、徹底的な宗教撲滅キャンペーンを行ったとき、イスラム的共同体を生活基盤にしてきた者にとって取り得る唯一の反応がジハードに参加することであった。

抵抗を執拗に続け

 当然、ダラエ・ヌール渓谷でも、全住民がムジャヘディンとして銃を取った。住民にとって聖戦とは、完全な意味で自分の村と血族の防衛に等しかった。村々が廃墟となってパキスタン国境地帯に「難民」となって逃れても、彼らがイスラム教徒である限り、この抵抗は執拗に続けられた。「ムジャヘディン」の大部分は地元住民そのものであり、○○党などとは無関係に各地域で抵抗が自発的に行われていたのである。

 政治党派が頭角を現してきたのは、諸外国からの金と武器が入り始めてからである。だが、それでも人々は、ニュースで報道される「○○派」の動きとは全く別の次元の力学で動いていた。

 ダラエ・ヌールに関して言えば、大ざっぱに、ソ連=政府軍勢力、イスラム諸党派、旧左翼勢力が入り乱れて抗争していたが、本来の地元勢力は、政治党派間の確執を巧みに泳いで結束し、臨機応変に対応してジハードを継続していた。彼らの動きこそが真に事態を決定する鍵であった。

自給自足に耐えて

 後に我々のスタッフとなる一部スタッフは、ダラエ・ヌール下流出身のパシュトゥン族で、JAMSの重鎮の一人ムーサーの配下に「リトル・モスクワ」の撹乱を目的に何年もゲリラ活動に従事していた。上流はパシャイー部族という別の民族が難民にもなれずに自給自足に耐えていたが、素朴なイスラム教徒である彼らは地区ゲリラに同情的であり、かつ協力した。ムーサーたちもこの山岳部を根城に戦っていた。後に我々が奥地の山村で多くの協力者を得たのも、そのお陰である。

 だが、戦闘の主力が次第に政治党派の傘下に入り、その横暴が目立つに至って嫌気がさし、ペシャワールのJAMSの下で中立の立場を守った。彼らは「戦闘を建設に、弾丸を薬品に」というJAMSの呼びかけに心から共鳴した。ともあれ、こうして我々は、地元住民の心を摑む機会を得ると共に、その苦悩を下から理解できたのである。「国内診療所」に向けて、着実な足固めが開始された。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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