辺境の診療所から(9) 人的貢献 無経験…態勢整わぬ日本 ソ連撤兵で難民救援ふえる【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 日本がおそらく戦後初の新しい国際的援助形態をさぐって困惑している時、現地でも新情勢が次々と展開していた。パキスタン政府内部に対立が生じ、一九八八年六月ジュネジョ内閣が解散した。同年八月、パキスタン大統領ジアウル・ハクが、大統領機もろとも爆殺されるという劇的な暗殺事件が起こり、九年に及ぶ戒厳令と軍政に終止符が打たれようとしていた。

疑惑さらに広げて

 この暗殺事件は謎めいた噂と憶測が終始つきまとった。時限装置つきの爆発物が果物カゴの中に忍ばされ、イスラマバード付近の上空で同乗の米国大使も巻き添えに抹殺された。いくらパキスタンといえども、厳重な警戒網をくぐってこのような事ができる可能性は少ない。直ちに米国から大掛かりな調査団が派遣されたが、結果は公表されず、さらに疑惑を人々の中に広げた。

 だが確実なことは、これが「米ソ歩みより」の脈絡の中で行われた事である。パキスタンの「反共前線国家」という位置の変化を露骨に求めるものであった。事実、八八年十月には総選挙が実施され、軍政に終止符が打たれた。暗殺されたハク大統領にクーデターで殺されたズルフィカル・ブット元大統領の娘、ベナジールがPPP(パキスタン人民党)を率いて圧勝した。これと共に、イスラマバード弾薬庫の大爆発以来、全土を震撼させた大規模なテロ・騒擾事件は一時的になりを潜めた。

 「難民帰還・アフガニスタン復興援助」開始の一方で、米国・ソ連の軍事援助は、米国だけで月間三―四億ドルのペースで継続されていた。内乱が更に激烈かつ複雑となる中で、国連の復興援助が「クロスボーダー・オペレーション(越境活動)」という変則的な形で強行されるという、奇態な現象を生んだ。末代までの笑いぐさである。

いきなり200団体に

 お陰で、八八年にソ連軍撤退が決まると同時に、それまで四十に満たなかった難民救援団体はその年のうちに二百を超え、巨額のプロジェクトが横行し始めた。実効よりは予算消化が急がれ、濡れ手で粟の援助資金を当て込んで人々が蝟集し、カネによる民心荒廃に大いに「国際貢献」したのである。

 さて、「難民帰還協力」の矢面に立たされたのは、当然外務省とJICA(国際協力事業団)であった。しかし、このての組織的支援は日本にとって経験が少なく、情報を国連に依存していることもあって、その態勢が十分に整っていなかった。ペシャワール現地で前面に出るプロジェクトとしては、最大のものがUNILOG(国連補給部)の創設、中小規模のものでは難民の産婦人科診療所での超音波検査の技術指導などがあり、一方で、ユニセフ・ペシャワール事務所を初め、多数の人材を国連内部に送り込んだ。大方は国連の軒先を借りた協力で実を上げようとしたらしい。

はた目にも悪戦苦闘

 ペシャワールで私たちと目立った接触があったのは、当然第一線の保健衛生プロジェクトである。八八年十月、ユニセフ・ペシャワール事務所に二年の予定で派遣されたのは、日本人女性の小児科のK医師である。角度は違うが前線にいる者の共有できる問題がある。中央の指令的立場と現場の実情との齟齬、ペシャワールの土地柄で女性としての不利な立場、身辺防護の問題、組織内部での人間関係…はた目にも悪戦苦闘だった。

 ユニセフ・ペシャワール事務所では、K医師赴任以前にいたスウェーデン系の者とフランス系NGOが馴れ合いになっていた。当時、「日本はカネさえ出しておればよい」という露骨な論調の欧米系団体が少なくなかった。理不尽な予算要求に対して彼女が断固たる態度で臨んで機構刷新を図り、軋轢を生じたとも聞いた。特にフランス系は、MSF(国境なき医師団)の過去の活動で名声を博し、少なからぬ思い上がりがあった。実際、我々無一文のJAMSのところでさえも、いきなりフランス系のNGOが来て、なれなれしく無心するということがあったので、彼女の苦境は察せられた。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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