辺境の診療所から(10) 現実知らぬ国連計画、日本政府も踊らされる【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 我々JAMS(日本―アフガン医療サービス)自身は、財源は専ら「ペシャワール会」(福岡市)を主とする小規模な日本の募金に拠り、あらゆる動きとは無関係に、全く独自の計画を黙々と進めていた。しかし、同じJ(日本)を戴く以上は、良い仕事をしてもらわないと、混同されてJAMSの評判を落とし、将来に差し支える。予想外の出来事でJICA(国際協力事業団)に間接協力するハメになったのは、ユニセフの「難民キャンプ母子栄養調査」である。

協力相手が殺され

 我々とは初め関係なかったが、具体的なプランと難民小児病院の協力相手まで決まり、いざスタートという矢先、突然相手のリーダーのアフガン人医師が自宅の玄関で射殺された。ペシャワールでは決して珍しいことではないが、さすがの豪気なK医師も仰天した。「至急、日本側に連絡する」ところであった。私はそれまで派遣団体とのやりとりで、ささいなことが大議論を巻き起こして肝腎なことが伝わらぬと言う、現地―日本とのすれ違いを嫌というほど知っていたので、「あわてて連絡せず、代替策を断行する方が賢明」と思い、「出来る限りの協力はする」と進言、代わってJAMSがこの仕事を委託される結果となった。

 暗殺の背景について探りを入れてみると、殺された当アフガン人医師は、穏健派の政治組織「アフガン・メラト」の重要人物で、政治的恨みで、初めから暗殺の標的にされていたと思われる。一説では、同医師が「イスラムと何の関係がある」と、髭(伝統の男性スタイル)を公衆の面前で剃り落としたことが命取りになったとも言われる。

 「産婦人科病院への協力」の方では、日本人専門医が一人一カ月前後、四人が交代で来た。しかし短期では適応が困難で、うち一人は到着二日目に発狂、イスラマバードのJICAと連絡を取りながら、急いで帰国させた事もあった。これは、JICAの手落ちではなく、厚生省側との連絡で人選に柔軟性を欠き、結果的に現地で問題を起こしたと言える。大組織の運命的欠点である。また、このグループは「パシュトゥニスタン(パシュトゥン人の国)」運動の勢力とつながりがあると目され、我々は警戒していた。

巨額つぎ込んだが

 UNILOG(国連補給部)の場合は、巨額をつぎ込んだだけに波紋は小さくなかった。これは、国連の青写真に沿うものである。数十万人単位で帰郷難民を出身地別に分け、各地に「モニタリング施設」を置き、一年分の食糧・種籾を与え、ワクチンなどを施行して帰すという非現実的な計画であって、その輸送担当に一役買おうと言う訳である。結局、何も知らぬ日本政府側が踊らされた形になった。

 二百台の大型トラックが用意され、車両修理のワークショップ準備、その為の現地スタッフ養成、トラック基地の建設まで行うという本格的規模であった。だが、早期帰還の望み薄となった一九九〇年には規模縮小を始め、派遣された日本人技術者四人のうち三人はアフリカに転出、一人がしんがりに留まった(後にペシャワールの路上で射殺された)。

日本が抗議しても

 残された車両のうち、大部分はパキスタン陸軍の管理下に置かれることになり、日本大使館が抗議したが結局うやむやになった。更に、一九九一年一月の湾岸戦争に転用されたという噂が広まって現地イスラム民衆は憤った。これは事実ではないが、噂の意味するところは、国連がいかに人々の不信を買っていたかを示すものである。

 以上のように、日本の「貢献」は後味の悪い思いを残して撤退し、九一年、日本政府は国連に約束した供与残額を凍結した。国連の中には憤激の声が上がったが、むしろ賢明な英断だったと思う。私ごとき一民間人には知る術もないが、おそらく第一線で現地の実情に触れた人々こそ、机上のプランの非力さを切実に知っていたのではなかろうか。

 日本の援助はどう見ても及第点をつけられないが、これでもまだマシな方であった。少なくとも政治的野心はなく、面子をごり押しすることもなかった。ただ、この「アフガニスタン」を機として、人材を国連内部に送り「国連を通しての国際貢献」が明瞭に打ち出され、以後、湾岸戦争への参加―カンボジアPKOへと急展開してゆく。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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