メーデー前に考える「残業代ゼロ制度」と「8時間労働制」の本当の意味

西日本新聞 竹次 稔

 5月1日は労働者の祭典「メーデー」。メーデーは、労働者の健康を守るため1日の労働時間を8時間に抑えることを求めた1886年の米シカゴでの労働運動(ヘイマーケット事件)が起源だ。それから130年近くがたつ。今、日本の国会では、一定の収入要件を満たせば、時間外労働に対する割増賃金が支払われない、いわゆる「残業代ゼロ」制度が本格的に議論されている。働き過ぎがなかなか改善しない日本で、同法案はさらにそれを助長するとの批判は強い。なぜ、労働時間の規制は働く人たちにとって重要なのか。メーデーを控え、大阪市立大の西谷敏名誉教授(労働法)に論じてもらった。(聞き手は竹次稔)

■要は、経営者の意向に沿った変更

 出発点がおかしい−。西谷氏がこだわるのは、なぜ今、労働者を守る労働基準法が改正され、「残業代ゼロ」制度」(政府は、高度プロフェッショナル制度と呼ぶ)の導入が検討されるのか、という点だ。

 「今の日本の状況をみると、優先すべき課題はどう働き過ぎを是正するのか、にある。過労死や過労自殺する人の数は高止まりしている。膨大な予備軍を想定すべきだ。それだけでなく労働時間が長いと、労働者の自由な生活は保障されない。労働者は働いて、寝て、それで終わりではない。そうあってはならない。自由で豊かな生活が確保されないといけない。それが日本で十分といえるだろうか」

 「日本と欧州連合(EU)との比較は重要で、EUの労働時間の上限は残業などの時間外労働を含めて1週間で48時間。加盟各国に実施を求めるEU指令で決められている。日本も時間外労働を除き原則週40時間と世界標準だが、労使の『三六(さぶろく)協定』(労働基準法第36条で認められる労働時間延長の協定)さえあれば、ほぼ無制限に残業させられる。特に30代、40代の男性の残業時間がEUなどと比べて極端に長い。本来は長時間労働の是正を、労基法改正の出発点にすべきだろう」

 時間ではなく、成果で評価される働き方を希望する労働者のニーズに応え、その意欲や能力を十分に発揮できるようにするため−。残業代ゼロ制度の導入目的を、厚生労働省はこう説明する。具体的には、年収1075万円以上の労働者について、残業に対する割増賃金の支払い義務の適用を除外する労基法の改正だ。残業させるのに三六協定もいらない。ただ、西谷氏はこう疑問を投げかける。成果に対して賃金を支払う、という仕組みを導入したとしても、労働時間の規制は行わなくてもいいという発想が間違っている、と。

 「成果と賃金を連動させる成果主義賃金は、古くから営業社員やタクシー運転手の歩合制などで普及してきた。それでも最低賃金の支払いと労働時間の制限のルールは守らないといけない。むしろ、成果を基準に賃金を計算する制度の下でこそ、労働時間をしっかり把握し、規制する体制が不可欠だ。このような制度では、労働者は大きな成果、高い収入を獲得するために、必ず働き過ぎるからだ」
 「このあたりから、誰のための改正なのか、政府の意図が見えてくる。要は、サラリーマンの生産性を上げたいという経営者の意向に沿った制度変更だ。生産性を上げるというのは、長く働かせても賃金の支払いを抑えられるということ。政府がやりたいのはこれだけ。それを正面から言ったら意図が露骨だから、あえてわかりにくい言い方をし、若干の改革が付随的に提案されている。政府の今の議論は、非常に不誠実だと思いますね」

 厚労省は残業代ゼロ制度の導入に当たり、一定の労働時間を超えた場合、医師の面談などを義務付ける「健康対応策」を盛り込んだ。その点は改善点にもみえるが、西谷氏は「この制度の本質を象徴している」と指摘する。

 「一種のドクター・ストップですよ。残業代ゼロ制度を導入すれば、労働時間は基本的に長くなる。これはだれが考えても分かる。それでも、健康に気をつけないといけないから、医師の面談を盛り込んだ。改正案に言葉だけ健康、健康と並んでいるだけ。これまで以上に働かせておいて労働者が健康を害してだめになるか、だめになった場合にどうするか。そこに医師が出てくる。労働時間を規制して健康を守るというのではなくて、労働時間を長くしておいて、それでもせめて、健康をぎりぎりで守ろうという発想」

 「問題は、年収が高い人だったら残業代ゼロ制度を導入してもいいのか、ということだ。高度でプロフェッショナルな人だと、山ほど仕事を与えられ、過労死してもいいのかと。年収が1千万円を超えるので残業代はなくてもいいだろう、という単純な発想しかみえてこない。ただ年収要件は、どんどん引き下げられる可能性がある。結局、8時間労働制の崩壊への第一歩となると懸念している」

 塩崎恭久厚労相が、経営者らが出席した会合で「経団連が早速1075万円を下げると言ったから(国会で)質問がむちゃくちゃ来ました。それはぐっと我慢していただいて、とりあえず通すということで」などと発言したとの報道があった。法案通過前から、将来的な年収要件の引き下げを示唆する大臣発言だ。

■少子化対策との矛盾、労組の衰退、働く人の意識

 1947年制定の労基法には「1日8時間、週48時間」の原則が盛り込まれた。その後、週40時間とする改正が87年にあり、今日の週休2日が広がった。労働運動の歴史を振り返れば、賃上げとともに、いかに長時間労働を抑制するかが大きなテーマとなってきた。西谷氏に8時間労働制の歴史を、少し振り返ってもらった。

 「米ヘイマーケット事件の後、1917年のロシア革命後に同国で8時間労働が法制化された。直後の19年に設立された国際労働機関(ILO)の1号条約も工業分野で8時間労働制を求めるなど、その歴史は長い。なぜ、8時間労働制が世界に普及したのか。それは『8時間の労働、8時間の睡眠、8時間の自由時間』という1日三分法の考え方が、人間としての自然の要求に合致したからにほかならない」

 「特に『8時間の自由時間』というのが重要だ。ドイツに3年ほど暮らしたことがあるが、国民の残業は少なく、夕方帰宅した後の時間を楽しむ。庭をいじり、パーティーを開き、コンサートに行く。それがまさに自由な時間。月曜から金曜の中に自由時間がある。日本の場合だと、休みは土日だけ。そこが大きく違う。つまり、労働時間の問題は、生活の豊かさにかかわってくる。日本はそのような意味で、非常に貧しい国なのではないか。ひどい場合は過労死する、と。そのような日本をどうしていくか、それが根本的な課題。投資しやすい国にするために労働法制を『岩盤規制』と批判し、攻撃するようなことが正しいことなのか、大いに疑問だ」

 安倍政権の労働政策には大いに矛盾があるという。

 「安倍さんは何を考えているんでしょう。一方で、少子化で大変だと騒いでいる。こんなに労働時間が長いと、結婚できない人が出てくる。フルタイムの女性を増やそうとしても、男性がこんな長時間労働だと、共働きするのは至難の業。女性は子育てがあるからどうしても専業主婦、パートにとどまってしまう。長時間労働を増やす残業代ゼロ制度と、女性の職場進出を促す方針とは明らかに相いれない。近視眼的というか、当面企業がもうかればいいのだと。それはもうかりますよ。労働時間を長くして残業代を支払わないのだから。女性が働きやすくなる制度とは真逆のものだ。女性がフルタイムで働くには、働き過ぎの男性陣を家庭の時間に振り向けることが不可避だ」

 労働時間の抑制が進むドイツやフランスなどと比べ、日本は年間400時間ほど、働く時間が長い。日本ではフルタイム労働者の年間労働時間が約2千時間と、ここ10年でもほぼ横ばい。欧米諸国では、有給休暇がほぼ完全取得なのに対し、日本の平均は5割弱。世界的にも悪名高い日本の働き過ぎが改善しない理由は、一体何なのだろう。

 「二つのことが考えられる。一つは労働組合が弱い。もう一つは労働者の時間意識が低い。それが相互に関係しているとも言える。組合が強ければ、無理やりでも労働時間を制限するとか、年休を100%とらせることができるが、それもない。私は最近、労組に対しては期待よりあきらめの方が強い。三六協定というのは、本当は労組側にとっては労使交渉の武器となり得る。協定を結ばないと会社側が残業をさせられないのだから。ところが、それを使った運動はほとんどみられない。多少賃金が下がっても早く家に帰って家族と過ごす方がいい、という労働者の意識も低い。欧州はさらに、週35時間へと労働時間を引き下げる運動を進めていったのとは対照的だ」

 では、西谷氏が考えている現実的な長時間労働の抑制策はどんなものなのか。

 「三六協定の中身を規定する告示(時間外労働の限度に関する基準)の改定が手っ取り早い。告示には、例えば1カ月の延長時間が45時間などと定められているが、特別な事情があればまだ延長できる『特別条項』という制度が用意されている。違反企業は労基署の指導は受けるが罰則はなく、日本の長時間労働のがん、とも呼べるものだ。特別条項を盛り込む基準を厳しくするだけで大きく改善する」

 「第2の策が、月45時間などの延長時間の上限規定を引き下げることだ。欧州で既に1週間の法定労働時間を残業込みで48時間にする指令が出ていることを踏まえれば、思い切った短縮が必要となる。本当は、告示の改定ではなく労基法本体を見直したいが、政府や経営者の強い反発が想定される。現実的には段階的に改善していくしかない。工業分野の8時間労働を求めたILOの1号条約をいまだ日本は批准できていない。三六協定でいくらでも残業をさせられることも理由だ。1号条約ができたのは、約100年も前のことですよ。いまさら日本で、1号条約の批准促進の運動をやるというのは、恥ずかしくてできませんが」

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