辺境の診療所から(14) カブールの崩壊 明暗…都市民と旧難民 広がる平和な農村風景【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 一九九三年一月、カブールの政情は更に混迷の度を深めた。日常化した市街戦はついに二月三日、「ジャミアテ」と「ヘズビ」との、主要二大勢力の激突に発展、市中にロケット砲の雨を降らせた。その後も波状的に大規模な衝突が繰り返され、市街の半分が灰燼に帰した。カブール市民は二月中旬までには一斉にアフガニスタン内部の各地方に四散し、市中は軍民を残してもぬけの殻となった。

国境は有名無実化

 カブールは終焉した。かつての華やかな都市生活をいかに懐かしんでも、厳然たる廃墟はいささかの感傷も受け付けなかった。五万人以上の都市中流階級がペシャワールに流れ込み、さらにイスラマバードやラホールなど、パキスタン各都市に逃れ、一部は欧米諸国に脱出しようとしていた。カイバル峠では、はつらつと帰郷してゆく旧難民と、逃げてくるカブール市民とがすれ違い、極端な明暗を分けていた。

 カブールが混乱すればするほど、それだけ平和な農村風景がアフガニスタン全土に広がっていった。北部では旧ソ連共和国、タジキスタンなどから逆に一万人以上の「難民」を受け入れる程であった。都市の弱体化は、北辺でも「国境」を有名無実化した。中央アジアでは、血なまぐさい東欧とは異なった「再編」過程が進行しつつあった。

 JAMS(日本―アフガン医療サービス)のペシャワール診療所では、受診する患者のうち、逃げて来たカブール市民の数が急激に増えた。しかし、二月にはペシャワールで機能する難民診療施設は、JAMSを含んで二カ所のみとなった。唯一の産婦人科診療所も、アフガニスタン側のジャララバードに拠点を移したが、バスが襲撃されて死傷者を出したり、薬品の補給困難があったりで、実質的に機能できずにいた(多くの医療機関がそうであった)。

惨めな都市避難民

 二月十一日、ジャララバードで再び国連の車両が襲撃され、五名が死亡、諸外国の救援活動は、一部の小さな団体を除いて、パキスタン・アフガニスタン双方でほぼ停止した。

 惨めな感じが強かったのはカブールからの避難民であった。かれらの多くが都市知識層で、難民キャンプ生活は不可能であり、知己の家に身を寄せた。悲惨さは、彼らが農民たる旧難民ほど楽天的になれず、常に政情をうかがって戦々恐々としていなければならなかったからだ。ペシャワールは保守的な街である。カブールでの西欧化された生活になじんだ者にはつらい。断食の習慣になじまぬ彼らに、二月二十三日のラマザーン(断食月)の到来は肩身の狭い思いを強いて、不満に拍車をかけた。

 二月二十四日、二千名のカブール避難民がデモ行進を行い、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の前で気勢を上げ、「国連軍のカブール進駐」を要求した。しかし、国連にもはやその意志はなかった。旧難民も地元のパシュトゥン族も、彼らへの同情の目はなかった。彼らこそが、無用な改革を強行して、結果的にソ連軍の進駐を招き、農村を破壊し、旧政府軍の将兵を供給してきたからだ。

農村は確実に復興

 ペシャワールの診療所で、あるカブールの避難民が、流暢な英語とペルシャ語で、その苦境を力なく私に語った。

 「カブールもアフガニスタンも終わりました。ものの分からぬパシュトゥンの田舎者連中が、すっかり駄目にしてしまったのです。アフガニスタンの進歩はこの内乱で十五年間止まり、パキスタンにさえ、もう追いつくことはできないでしょう」

 とんでもない。アフガニスタンは健在である。農村の復興は、地雷などものともしない農民たちの自発的帰郷で確実に進んでいる。しかし、私は反駁する気も起こらず、何故かむっつりとしてしまった。

 一九九三年二月二十三日のラマザーン入りは、冷たい冬の雨であった。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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