辺境の診療所から(15) カブール、見捨てられた都市民衆 200万人が飢餓の恐怖に【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 夜来の初雪でカブールは純白に覆われた。すがすがしい大気と雪の白装束が、全ての愚劣な人間の行為と悲惨をくるんでいるように思えた。だが、市内の実情を知る者は、この白さが死に装束に見えたことだろう。厳冬を直前に控えて、飢餓が最低二百万人ともいわれる市民たちの足元に忍び寄っていたのである。

 一九九二年十一月二十日、私はアフガン人に扮して早朝ペシャワールを発ち、二十名のJAMS(日本―アフガン医療サービス)スタッフと共にカブールに入っていた。

認知の下地づくり

 我々の訪問目的は、カブール市内の実情の視察と将来の政府公認団体としての認知の下地を作ること、カブール北方山岳部の見聞と診療所開設の可能性を探ることであった。

 「なぜ北部か」というのは理由があった。同年四月の政変劇を機にして、「南のパシュトゥン対北の非パシュトゥン」という対立が囁かれ、ヒンズークシ山脈を境にアフガニスタンの南北分断が現実性を帯びて論じられていたのである。実際、我々JAMS内部でも、パシュトゥ語を話す者とペルシャ語を話す者との間に微妙な対立感情があった。これは私も前々からうすうす感じていた事ではあった。

民族超える普遍性

 同年八月十一日にパシュトゥンを背景とするイスラム党と北部のペルシャ語地域を代表する諸党派が衝突、大規模な市街戦となり、焼け出された数十万名がカブールを退避するに及んで、うすら寒い恐怖を感じた。そこで、我々JAMSの活動をいずれ北部にまで延長し、部族・民族を超える普遍性を持たせる事を思案したのである。

 だが市内に足を入れる前に、ペシャワールに流れてくる様々な情報から、今回のカブール行きが徒労になることは予測されてはいた。カブール市内に入るまでいくつもの党派の検問所が睨みをきかしており、市内も事実上各党派の「分割占領」で、不安定な暫定政権との交渉など覚つかなくなっていた。

 それでも、敢えてカブールを訪問することは、それまで東部パシュトゥン部族の領域に限定されていた活動を超え、それ自身が北部に関心を示す意思表示であり、JAMS診療チームの結束を固める意味でも不可欠と思われたからである。

日常化した市街戦

 カブールの都市機能は完全に麻痺していた。日が落ちると全市は暗闇に包まれ、時折砲声が聞こえる。各政治党派の権力闘争のため市街戦が日常化し、市民は脅えていた。北部に拠る非パシュトゥン系、とくにウズベク人を主とするドスタム派、中央山岳地帯に拠るハザラ系、パシュトゥンを背景とするイスラム党の軍民が割拠しており、市内の通行もままならなかった。主な街角には銃を背にした若い軍民が恣意的に検問し、寒々とした光景であった。日本を含め各国大使館は殆ど閉鎖されており、外国人ジャーナリストは誰も居ないと聞いた。

 二百万人の市民の越冬は到底不可能に見えた。医薬品はおろか、電気・水・薪・ガソリン、全て欠乏状態、補給の見通しもない。沈鬱なムードが支配していた。人々が旧ソ連―アフガン政府の崩壊した後に見たものは、別の政治スローガンを掲げる新しい暴君たちの抗争、生活の窮迫、無政府状態、そして迫りくる飢餓への恐怖であった。

 まさに農村の復讐であった。四月の政変に始まるカブールの悲劇は、爆発的な難民帰郷、自力復興の始まった明るい農村の光景と極端に明暗を分けていた。かつて希望に満ちた近代化のシンボル、そしてアフガニスタン全土を軍事力で圧服し、農村を灰燼に帰した根拠地、「強く美しい都市カブール」は、今は見る影もなかった。しかしこれは、より大きな悲劇の前奏曲に過ぎなかったのである。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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