辺境の診療所から(16) チームワークに亀裂、JAMS内で民族対立【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 一九九二年十一月下旬、カブールの北東山岳地帯からダラエ・ヌールに戻る途中のことである。幹線道路にはいくつもの党派の検問所があり、パシュトゥン部族を背景とするイスラム党が復讐に「ハザラ狩り」を行っていた(モンゴル系のハザラ族の軍民は当時イスラム党と対立、通行中のパシュトゥンを捕らえて耳や鼻をそぎ落とすという挑発的事件も重なり、カブールでは両者が市街戦を演じていた)。

いきなり発砲され

 ある検問所を通過したとたん、いきなり私の乗っていたジープが背後から発砲され、停止を命ぜられた。イスラム党のパシュトゥンの若い軍民たちが、私をハザラ族と誤認したらしい。こわばった表情をし、銃で威嚇して私の引き渡しを要求した。

 シャワリ医師は血相を変えて車を降り、必死に私がアフガンのハザラ族ではないことを説明しようとしていた。「コマンダーン(指揮官)を呼べ。話せば解る」というやり取りが聞こえたが、一人の若者が車に近づき、私に銃口を向けて「降りろ」と命令した。スタッフたちが「ドクター、降りるな!」と忠告するところに、百メートル程先を走っていたムーサーの運転するジープが直ちに引き返し、罵声を浴びせて相手のカラシニコフ銃をもぎ取ろうとしてあわや銃撃戦になるかと思った。

平静を装ったが

 双方共にそれぞれ十数名であったが、数丁のピストルでまともに渡り合えるものではない。

 ムーサーを制し、間もなく駆けつけた責任者に事情を説明した。私は平静を装って悠然とタバコをふかし、何食わぬそぶりでケムに巻こうとした。

 「つまらん事で何を騒いどるんだ。病人が待っておる。早く行かせろ!」

 「日本人のあなたがパシュトゥ語を話せるのか」

 「バッチェ(子供達よ)、当たり前だ。アフガニスタンはパシュトゥンの国だ。知らずして何とする。客人に対してこんな出迎えは初めてだったぞ」

 「(ペルシャ語で)どこから来たのか」

 「ペルシャ語は解らぬ。パシュトゥ語で話せ。俺はハザラではない。お前こそ誰だ。ハザラかウズベキか」

 相手が苦笑いした。せっかく双方の態度が和らいだのに、ムーサーがややこしくした。

 「こんな無知な野郎を手下に、鉄砲以外に話し方を知らねえのかい。それで国を治めようという魂胆がだいたい間違ってるんだ」

 再びこじれかけた所に、シャワリ医師が機転を利かして、「通行を守る責任感の強さ」とお世辞を述べ、相手の態度がやっと軟化した。

 後で私がムーサーから聞いた愚痴は、「あの犬野郎どもの曲がった根性を正そうとしたのに、だいたいシャワリ・ドクターが軟弱なんだ」というもので、シャワリ医師の言い分は、「ああでもせぬと今頃我々は皆殺しだ。ムーサーが不必要に汚い言葉をはくからだ。厳重に注意する」というものだった。

偏見がちらりと

 私の恐れてきた一つの亀裂がJAMS(日本―アフガン医療サービス)のチームワークの中に忍び込んでいるのを、初めて実感として知ったのである。タジク系のカブールっ子であるシャワリ医師としては、パシュトゥンに対する一種の偏見があるのは事実で、リーダーとして余程の気配りをしていても、ついそれがちらりと顔を覗かせる。ムーサーの方では、事あるごとにペルシャ語の話し手の「ふにゃふにゃした軟弱さ」をこぼして気に食わない。

 私自身は、洗練されたカブールの都会的センスよりも、粗暴だが実直なパシュトゥンの世界に馴染みがあった。だが、美点だけを愛するという事はできない。つきつけられた銃口は、悲しい傷となって残った。所属感を失った迷子のような気持ちだった。「自分は日本人でありパシュトゥンでもある」というそれまでの思いは、今や「日本人でもアフガン人でもない」という、得たいの知れぬ自分への懐疑へと変わった。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

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