中村八大編<471>壁越しの出会い

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 中村八大が福岡県久留米市で生活したのは1945年1月から49年3月までの、約4年間である。その歳月について本紙に寄稿した「私の心の久留米」(72年)の中で次のように回顧している。 

 「戦中、戦後の混乱期であったことと、年齢的にいちばん感受性が強い思春期に久留米で育ったことで、やはり私の中の久留米は、私の内部で大きな地位をしめている」 

 久留米時代に住んだ家は津福本町が約10カ月で、残りは花畑である。この間の出会いの中で、生涯にわたって、まさに「大きな地位」を占めるのは同じ旧制明善中学(現明善高校)に通っていた、1級上の本間四郎だ。 

 四郎は医師をしていた父、本間一郎の四男で、幼いころから音楽に親しんでいた。戦後まもなく姉が弾くためにピアノが家に入った。四郎はそのピアノと遊ぶようになった。中村の少年期と同じような環境だ。ただ、中村は講師からレッスンを受けたことがあるが、四郎の二男で、音楽家の敬二は「父のピアノは独学でした」と語る。 

   ×    × 

 花畑時代、本間家と中村家は壁一つ隔てた隣同士だった。四郎がピアノでシューベルトの「軍隊行進曲」を弾いていると、突然、空き家だった隣から同じ曲が流れてきた。中村も四郎のピアノを意識してか、挑発的にアップテンポにしたりした。 

 「女学生が弾いているのか」 

 四郎は庭に降り、高さ1・8メートルの壁をよじ登るようにして、隣をのぞき込んだ。目と目が合った。 

 「グランドピアノの前に座った小さい男の子があざやかにマーチを演奏していた。カルチャーショックでした」 

 四郎は明善高校一二〇周年記念誌「楽天の系譜」(99年)に寄稿した「中村八大さんの想い出」の中で記している。敬二もこのエピソードを直に聞いている。

 壁越しのピアノから友情が芽生えた。この時、2人の間に壁はなくなった。同じ学校の生徒ということもわかり、一緒に登校した。

 四郎は腕力が強く、番長格的な存在だった。「八大に手を出したらオレが許さない」。四郎はこういった「ボディーガード」のような面もあった。 

 「軍歌のかわりにハイカラな歌はないか」 

 学校に初めて男声合唱団が生まれた。40人のメンバーだ。指揮者は四郎で、ピアノ伴奏は中村。「四・八コンビ」が生まれた。     =敬称略

  (田代俊一郎)

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