辺境の診療所から(17) 人間の分を知る謙虚さ おおらかに「神の御心なら」【中村哲医師寄稿】

<1993年4~5月に本紙朝刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「辺境の診療所から アフガン難民との10年」(全17回)>

 現地では、未来のことを述べるときに、必ずと言えるほど「インシャッラー(神の御心ならば)」という言葉が登場する。「荷物は○月○日までに着くか」と尋ねると、「インシャッラー、着くでしょう」と答えられ、しばしば到着しない。「この仕事を今年中にはやり遂げよう」と決意を促せば、「インシャッラー、頑張りましょう」と気勢をそがれ、大抵は間に合わない。

年齢も「だいたい」

 年齢もそうで、我々が病院で患者に「おいくつですか」と聞けば、一部の知識層を除けば、「だいたい…」で始まって、二十歳・二十五歳・三十歳と五年刻みで述べられるのが普通である。時には「見りゃ分かるだろう」とからから笑う者さえいる。誰も正確な年齢を知らない。几帳面な人間には耐えられぬ世界である。

 かくて「インシャッラー」は日本商社マンの敵となり、過密スケジュールでやってくる旅行者やボランティアを悩ませる。「またお会いしましょう」と言って「インシャッラー」と答えられ、怒る者もいた(実はこれは普通の挨拶である)。そこで、大抵の日本人はこれをいい加減さの代名詞と誤解しているが、決してそうではない。

 ペシャワールやアフガニスタンに居て、人々の生活に入ると、このインシャッラーが美しい響きを持っていることが解る。そこには、人間の分を弁える謙虚な祈りが込められているのである。距離の概念でも、山岳地帯では「普通歩いて三日、遅い者なら四日」といった表現が正しいし、予期せぬ事態も多いからだ。現実に、「またお会いしましょう」と別れた人間が直ぐに帰らぬ人ともなる。二日予定の山越えが、天候次第では四日になる。フライトが気象の変化で一週間延びることは山地では稀でない。何が起きても不思議はない世界である。確約はできない。年齢もよく考えれば、人により成長・老化の個人差があるのは当然で、一年や二年の違いに目くじらを立てる事はない。

誓いを立てたら…

 「急ぐほど被害が多い」と現地では言う。私の経験でもそうで、あまり急いで正確さにこだわると疲れるばかり、成果はさして上がらない。それどころか大局を見失って大失敗する。さりとて彼らが約束も守らず、いい加減かと言えば、絶対にそうではない。いったん心に決め、誓いを立てれば、何年かけても我慢して待ち続ける。私は幸いにして田舎の住民から裏切られた経験を持たない。

 日本人は短気で性急である。これが長所でもあり、欠点でもある。ペシャワールには一九八八年以来、多くのボランティアがやってきたが、少なからぬ者が疲れて帰ってゆく。大河のようなおおらかさを体得するのに相当時間がかかる。成功はもちろん心地よいが、失敗もまた良し、努力の結果なら悪からず、別のやり方で繰り返せばよい。さらに、その時は成功と思っても、長い目で見れば良いか悪いか分からない。

日本人にない性格

 困難を乗り越えて現地にきたボランティアの方々に失礼かも知れぬが、日本人に欠けるのはこのおおらかさである。はた目で見れば、緩やかだが深く静かに流れる川面で、水しぶきを上げて騒がしく流れにあらがう様は、正直、気の毒である。観念して神の御心に委ねるべし。どれほど豊かな世界が広がるか計り知れない。現地との基本的な齟齬(そご)は、このインシャッラーの精神にある。

 逆に日本に帰ると私は窮屈である。強迫的な正確さは耐え難く、瑣事を針小棒大にあげつらうのは異様に見える。列車が一時間でも遅れようものなら、乗客は怒り狂い、マスコミは大騒ぎする。金さえ出せばトコロテン式に望みの物が手に入り、意のまま気軽に、万事が運ぶものとの錯覚が生まれる。日本列島の住民の立場に立てば、そうしなければ生きてゆけないので仕方がないが、せちがらい世の中になった。この流れに乗らねば、誰かにしわ寄せがくる。だが、なければないで済むものが余りに多いことを、少なくとも知るべきである。それで我々が「進歩している」と思うのは大間違いである。

(JAMS顧問医師、ペシャワール在住)

 =おわり

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