新婚旅行中の不安 聞こえてきたすすり泣き 原爆を背負って(34)

西日本新聞

 バスに揺られ雲仙に向かう間、私はほとんど話しませんでした。夜のことをずっと考えていたんです。背中を見たら栄子は自分の前からいなくなってしまうんじゃないか。いなくなるに決まっている-。そんなことが頭を巡り、とても会話する気になれなかった。彼女には私が怒っているように見えたかもしれません。

 知人が経営していた緑屋旅館に着いたときには夜になっていました。心を決めていた私は、部屋で食事を終えて言いました。「一緒に風呂に入ろうか。背中を流してくれんね」。風呂場のいすに腰掛け、背を向けました。後ろで彼女が息をのむのが分かりました。黙って背中を流してくれましたが、すすり泣きが聞こえてくる。顔を見るのが怖くて、振り向くことができませんでした。

 布団に入ってからも栄子はずっと泣きっぱなし。翌日も思い出したように涙を流していました。終戦まで韓国で過ごした彼女は原爆のことを知らなかった。私はぽつぽつと、戦時中の郵便配達や1945年8月9日の体験、長かった入院生活のことを語りました。

亡くなる直前のタガばあさん。ばあさんを安心させることができて本当によかったと思います

 このとき、栄子が何を考えていたのか。だいぶたってから知ることになりました。記者の取材に彼女が答えたんです。栄子は、私には顔と手に少しやけどがある程度だと、伯母さんに聞かされていたそうです。新婚旅行の夜、背中一面の醜い傷痕を見て「だまされた」と思ったようですが、同時に「あぁひどかね。原爆ってこがんだったとねと思うと、涙が止まらんやった」と記者に話しました。落ち着いてくると、「私が面倒見てやらんば」と思ってくれたみたいです。

 1泊2日の旅行を終えて家に戻ると、不思議なことに結婚式のときにいた親族がまだ残っていた。みんな驚いた顔で私たちを出迎えました。これも後になって知ったことですが「背中の傷を見たら一緒に戻って来んやろう」と心配で帰れなかったそうです。

 私は栄子を、寝たきりのタガばあさんの元に連れて行きました。戻ってきた私たちを見て、ばあさんは本当にうれしそうだった。栄子の手をしっかり握り、「ありがとう」と震える声で言いました。ばあさんが亡くなったのは、その10日ほど後の1956年3月23日。穏やかな顔をしていました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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