原水禁運動に亀裂 徐々に強まった「政治色」 原爆を背負って(40)

西日本新聞

 第五福竜丸の被ばくをきっかけに、国民的な盛り上がりを見せた原水爆禁止運動。思想信条にかかわらず、団結していた運動は、日米安保条約改定が議論され始めたころからおかしくなっていきました。運動は徐々に政治色を強め、被爆者は蚊帳の外に置かれていったんです。

 運動を担っていた原水爆禁止日本協議会(原水協)は1959年3月、社会党や総評などと一緒に安保改定阻止国民会議を結成し、闘争に力を注ぎました。これを受け、自民党は原水協を敵視。59年7月には地方自治体が原水協組織に支出していた補助金停止を指示し、地方議会ぐるみでやっていた運動から保守系議員を切り離しました。

 こうした中で60年に開かれた6回目の原水爆禁止世界大会は、イデオロギーが前面に出たものになりました。決議文に「安保破棄」だけでなく、「米国帝国主義」の文言も入りました。これに反発した民社党系などは翌年、原水協から離脱し、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成します。

世界大会の分裂で被爆者も混迷に巻き込まれていきます

 安保闘争で共闘した社会党と共産党も、61年のソ連核実験再開への対応をめぐり対立を深めます。「いかなる国の核実験にも反対」と主張する社会党に対し、共産党は「防衛的立場の社会主義国の核実験を、帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」と反論したんです。原水協に影響力を持っていた社会党系と共産党系の衝突で、原水禁運動は混迷を深めていきました。

 2年後、大気圏での核実験を禁止した部分的核実験禁止条約に米英ソが調印したことで、原水協内部にくすぶっていた火種が再燃しました。社会党系が条約を支持したのに対し、共産党系は「地下核実験を認めることになる」と反対したんです。

 当時は冷戦期。ソ連の核実験は防衛のためという主張も分からなくはなかったし、部分的核実験禁止条約も運動の成果として評価できた。でも、目標はあくまで原水爆の完全禁止です。「見解の一致がないと一緒に行動できない」と言う人たちを、「辛抱強く話し合うべきだ」と説得しました。しかし、聞き入れてもらえませんでした。

 63年8月、社会党系が世界大会をボイコットし、独自に集会を開きます。大会はついに、分裂してしまいました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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