「ここが日本よ」涙あふれ…11歳で引き揚げ 戦争の過酷な記憶

西日本新聞 長崎・佐世保版 竹中 謙輔

佐世保 葉港の軌跡(1)

 「ここが日本よ」

 引き揚げ船のタラップを下りた母親は、脚を伸ばして、力強く地面を踏んだ。言葉に促され、娘もそれをまねた。涙があふれ出た。

 1946年冬、佐世保港浦頭(うらがしら)。門司(もんじ)光子さん(85)=長崎県波佐見町湯無田郷=は当時11歳。生後40日で中国大陸に渡ったので、故国の土に触れたのは初めてだった。

 父母と終戦を迎えたのは旧満州(中国東北部)のハルビン。葫蘆(ころ)島で引き揚げ船に乗るまでに、過酷な場面を目の当たりにした。

 一家は食料難のハルビンで強盗に遭った。ソ連兵、中国人、日本兵まで襲ってきた。葫蘆島へ向かう汽車では、日本人女性がソ連兵に撃たれ、走行中の車内から足先で蹴落とされた。

 引き揚げ船も食べ物が乏しかった。約3千人が乗っていると聞いた。配られた大豆は1人10粒。隣の人が1粒多いと、声を荒らげる人がいた。船長に麦のおむすびを分けてもらったときは、見つからないように、夜中に布団をかぶって父母とこっそり食べた。

 栄養失調などで亡くなった人は海に葬られた。船がそこを旋回すると、なきがらがしばらく船を追うようについてきた。「波でそうなったと思うけれど、あのときも涙が出てきてね」

 楽しみな時間もあった。船内の簡素な舞台で、手品や三味線、踊りが代わる代わる披露された。門司さんも友人と寸劇を演じた。

 日本が見えると、甲板に集まって歓声を上げた。だがコレラ患者がいたため、港に入っても1カ月ほどは接岸できなかった。船内の誰もが、目前の帰国を今や遅しと待ちわびた。

 浦頭には45年から50年にかけて、旧満州や朝鮮半島などから軍人、民間人合わせて139万1646人が引き揚げた。その数は博多港に次ぎ2番目に多い。

 上陸した人たちは検疫を受け、現在のハウステンボスの一角にあった厚生省引揚援護局で日用品や切符を手渡され、南風崎(はえのさき)駅から古里を目指した。

 疲れ切った引き揚げ者に地元の人たちは芋や雑炊を差し入れた。その様子を見ていた森川普(すすむ)さん(84)=佐世保市針尾北町=は「やせこけた人たちに、少しでも力をつけてあげたかったのだろう」と回想する。

 門司さんは、ふかした芋の味が忘れられない。南風崎駅でもらった子どもの拳ほどの小さな芋は、ひもじかったせいか、たまらなくおいしく感じた。

 無事に帰国できなかった人も多い。遺体や遺骨になって戻ってきた人。上陸後に力尽きた人。浦頭に程近い釜墓地には約6500柱が眠る。

 苦難と希望をのせた引き揚げ船の港、浦頭。いま、クルーズ船の拠点港へと変容を遂げ、7月末にはターミナルが完成する予定だ。「私にとって感激の地。港がどんな姿になったのか。もう目がほとんど見えなくなったけれど、行ってみたい」。浦頭へ思いをはせ、門司さんは頰を緩めた。

     ◇

 佐世保港は「葉港(ようこう)」と呼ばれる。ヤツデに似た形状だから、「葉」の字を崩すと「サ」「世」「ホ」になるから、と諸説ある。この港の軌跡を通して佐世保の戦後をつづる。

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