平野啓一郎 「本心」 連載第307回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 ――そのあとに起きたことが何だったのかは、今も曖昧なままだ。ともかく、それは一つの奇跡だった。

 どうした機械の不調か、ふと気配を感じて振り向くと、僕の傍らには、消したはずの<母>が座っていた。しかし、僕は不覚にも、本当に一瞬、母が生き返ったような錯覚に見舞われたのだった。

「お母さん!……」

 僕は、今こそその機を失わないために、恐る恐る、腕を伸ばした。あの日、握ってやれなかった手がそこにあった。そして、<母>に触れた。――そう、本当に触れたのだった。

 僕は慄然(りつぜん)とした。VF(ヴァーチャル・フィギュア)の<母>の手には、確かに生きた人間の感触があり、体温があった。

「……お母さん、……」

 僕の両目からは涙が溢(あふ)れ出した。

 僕は、甲から<母>の手を握っていた。そしてそれは、僕の呼びかけに応じて掌(てのひら)を上に返し、また優しく、僕の手を握り直した。

 傍らには、人がいるという質量の圧迫感があった。<母>は、自分の体がいつの間にか備えた肉体の充実に気づかず、ただ、微笑しながら僕を見ていた。その手には、確かに生き返った人だけが持ち得るあたたかさが充ちていた。

 奇跡の驚きは、長くは続かなかった。僕はほどなく、何が起きているのかを理解した。この家にいるのは、僕の他に一人だけなのだから。

 それでも僕は、その出来事を奇跡と感じさせた、現実を覆う儚(はかな)い皮膜にしばらく留(とど)まっていた。僕は静かに目を閉じたが、再びその手が離れ、遠ざかってゆくまで、ヘッドセットは外さなかった。

       *

 三好の引っ越しは、簡単なものだった。朝からバタついていて、あまり感傷的になる間もなく、前夜のことも、お互いに何も言わなかった。

 昨日より、更(さら)に一層雲が薄くなって、西の方には青空も見えていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ