「前畑弾薬庫」返還の道険しく 進まぬ理由、市民に伝わらず

西日本新聞 長崎・佐世保版

佐世保 葉港の軌跡(5)

 在日米海軍司令部がある横須賀基地(神奈川県)の一室。長崎県佐世保市長だった光武顕さんは海軍の幹部と向き合っていた。2000年代前半だったと記憶している。案件は米海軍の佐世保弾薬補給所、通称「前畑弾薬庫」の返還。

 幹部はおもむろに軍服の前ボタンを外した。「包み隠さずいきましょう」。文字通り、胸襟を開く姿勢を示した。光武さんも「本心で話そうという意思表示だな」と感じ取った。やがて前畑弾薬庫返還は日米の合意事項となるが-。

 佐世保港一帯の軍用施設返還は、市政のとりわけ重い課題だった。

 戦後すぐに掲げたのは、軍都から平和産業港湾都市への転換。国から軍用施設や土地の払い下げを受けるため、市は旧軍港市転換法の制定を働き掛けた。

 法案は国会で可決。住民投票で賛成多数なら成立する。50年6月4日の投票日を前に、中田正輔市長はトラックの荷台に立ち、市民に賛成票を呼び掛けた。

 当時の有権者数は約9万3千人。投票率89・4%。賛成は97・3%で、横須賀、舞鶴(京都府)、呉(広島県)の旧軍港4市で最高だった。軍用地は学校や工場などに活用された。

 住民投票から21日後の6月25日、佐世保の進路は大きく変わる。朝鮮戦争の勃発。主要な港湾施設は国連軍に接収され、後に米軍基地が置かれた。以降、市は米軍の岸壁や弾薬庫などの返還要請を続け、90年代になって動きだしたのが前畑弾薬庫だった。

 前畑弾薬庫はJR佐世保駅から2キロほど。周囲には住宅や学校、企業がある。危険を訴える市民の声が、95年に就任した光武市長に届いていた。市長選の争点にもなった。

 歴代市長で初めて前畑弾薬庫を視察する前、米海軍佐世保基地の幹部と酒を飲んだ。「向こうも私も立場が分かっていた。それでいくらか門戸を開いたんじゃないか」。89歳になった光武さんは振り返る。

 米側の返還条件は約15キロ離れた針尾地区への弾薬庫移転。近隣住民と膝を突き合わせて話し合った。県議時代に同期だった久間章生衆院議員が防衛庁長官を務めたことは、国との協議にプラスに働いたと考える。

 光武さんが市長を退任して4年後の2011年、ついに重い扉が開いた。日米合同委員会が前畑弾薬庫の機能を針尾島弾薬集積所に集約し、前畑弾薬庫の日本返還に合意した。

 それから9年。「どうも頓挫している。何をしているのだろうか」。光武さんは首をかしげる。「せっかく国策に協力したのに進展しないとは…」。悩んで移転を受け入れた針尾地区の住民ももどかしい。

 返還が進まないわけは、市民に伝わっていない。

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