悲しみに沈んだときに【坊さんのナムい話・15】

西日本新聞 くらし面

 人生には時として理不尽な出来事が襲ってくることがあります。それは突然に、そして暴力的に、私たちから大切なものを奪っていきます。

 これは本で読んだあるキリスト教徒の方のお話です。その方は若くして最愛の妻を病で亡くされました。医師から残りの命を告げられてはいましたが、心の準備などできるはずもなく、妻の死後は悲嘆に暮れる毎日を過ごしておりました。そんな姿を見て、多くの友人が励ましの言葉を掛けてくれたそうです。思いやりの言葉であると分かっていたのですが、しかし実際にはその言葉で心が救われることはありませんでした。

 そんな彼の心を慰めたのは、教会で共に祈りをささげてくれる方々だったそうです。何も言わずただ隣に座り、わずかな時間、祈りをささげ、何も言わずに黙礼をして去っていく方々。人と人とが向き合うことよりも、ただ横に並んで同じものを見つめるということの方が、心の支えになることがあるのです。

 別離の悲しみの真ん中にいる人に対しては、言葉はあまり力を持っていないのかもしれません。「あなたの方がまだまし」「立ち直れた?」「時が解決してくれるよ」「早く新しい生活を始めよう」。そんな優しさに満ちた言葉が心をえぐることもあります。「頑張って」という励ましの言葉にすら、恨みを持ってしまうことだってあるのです。

 お釈迦(しゃか)様は「この世界は思い通りにならない悲しみと苦しみの世界である(一切皆苦(いっさいかいく))」と言いました。そのことをしっかり理解するようにとも言いました。それを知ったからといって、苦しみや悲しみが消えてなくなるわけではありません。しかし知ることで、悲しみに沈んでも「おかしなことではない」と自分を許してあげることができるのではないでしょうか。

 悲嘆のプロセスにおいては、しっかりと悲しむことが大切といわれています。「私は悲しい」と言いづらい世の中ですが、自分が泣き崩れたら必ず支えてくれる誰かがいれば、安心して悲しむことができます。誰かを支える誰かになれるよう、共に同じ方向を向いて歩いていきましょう。

(永明寺住職・松崎智海 北九州市)

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