中村八大編<472>みんなで歌えば

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 敗戦を告げる「玉音放送」の後、まもなくしてラジオから流れるのは戦後初のヒットソング「リンゴの唄」だった。 

 <歌いましょうか リンゴの歌を 二人で歌えばなおたのし みんなで歌えばなおなおうれし> 

 戦後復興はこの歌とともにスタートした。声に出して、歌う。解放感の象徴でもあった。 

 中村八大の通う旧制明善中学(現明善高校)では、バッハやハイドンなどの合唱曲が流れた。男声合唱団が生まれ、本間四郎が指揮を、中村がピアノを担当した。変声期だけにうまく、音の調子が合わないこともあった。

 「(合唱団の中に)たった一人小さくて可愛いい坊ヤがいた。あちこちに移調してたちまちのうちに弾いてくれたのにはオッタマゲた」

 本間は小冊子の中の「コーラスと私」で中村の才能をこのように書いている。

   ×    × 

 男声合唱団は混声合唱にも発展した。グラウンド隔てて久留米高等女学校があった。女学校の音楽の先生が本間、中村たちの合唱団の力を認めて両校の合唱団が一緒に歌った。中村はうきうきした様子を記している。

 「大手を振って久留米高女の音楽室まで練習に出かけられるのが、他の学生達にはうらやましがられ、何だかだとラブレターの手伝いを随分やらされた」 

 中村は恋の仲介役を任じているが、自身の初恋の相手はこの女学校の生徒だったことを自著「ぼく達はこの星で出会った」の中で告白している。

 登校途中に「丸顔の色の白いかわいい女学生」と会った。下校する女学生の同じバスに同乗し、郊外の家までついていく。

 夕食が終わると「散歩して来る」と言って、女学生の家まで出かけた。直接、訪ねるわけではない。家の周辺を回るだけだ。夏の夕暮れの日課だった。

 「彼女とばったり会ったらどうしょう、会えないのは口惜しいけれど、会ってしまったらもっと困ってしまう」

 家の後を走っていたディーゼル軌道のレール上に回り込めば彼女が勉強する姿が見えた。

 「卓上電気の片光線に当たる彼女の顔立ちは陰影がはっきりとして(略)それはもう女の色気をたたえた絶世の美女に見えた」

 自ら「のぞき」とも書いている。その毎日も「ドロボーッ」との声で終止符を打つ。中村の初恋は一声も交わすことなく、告白もせずに終わった。

 同女学校は学制改革を経て1949年、明善高校と統合した。  =敬称略

  (田代俊一郎)

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