平野啓一郎 「本心」 連載第312回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 それでも、生きていていいのかと、時に厳(いか)めしく、時に親身なふりをして、絶えず僕たちに問いかけてくる、この社会の冷酷な仕打ちを、忘れたわけではなかった。それは、老境に差し掛かろうとしていた母の心を、幾度となく見舞ったのではなかったか。

 僕はただ、母の声を聞きたいだけじゃない。母と対話したいのだった。それこそが、僕の失敗したことだったから。……

 何のために存在しているのか? その理由を考えることで、確かに人は、自分の人生を模索する。僕だって、それを考えている。けれども、この問いかけには、言葉を見つけられずに口籠(くちご)もってしまう人を燻(いぶ)り出し、恥じ入らせ、生を断念するように促す人殺しの考えが忍び込んでいる。勝ち誇った、傲慢(ごうまん)な人間たちが、ただ自分たちにとって都合のいい、役に立つ人間を選別しようとする意図が紛れ込んでいる! 僕はそれに抵抗する。藤原亮治が、「自分は優しくなるべきだと、本心から思った」というのは、そういうことではあるまいか。…… 

 そして、「あなたが今、『もう十分』と言って安楽死を願うとしたら、僕は全力で止めます。あなたが現実を変えようとして努力をするなら、応援します。」という彼の言葉を思い返した。

 僕はやはり、岸谷に伝えたかった。それでも、僕たちが「生きていていいのか」と問い詰める側に立ってしまえば、終わりじゃないか、と。そして、踏み止(とど)まった彼は、そのことを知っていたはずだ、と僕は信じたかった。

 

 ティリとの待ち合わせのレストランは、日比谷にある複合商業ビルの三階だった。

 以前から、一度お礼がしたいと言われていて、その必要はなかったが、僕も彼女と、会って話がしたかった。フィジカルな僕たちは、あのメロンの日の不幸な出会いの記憶の中に、まだ取り残されたままだった。僕は、彼女のヒーローのままでいたくなかった。あの日、実際には何があったのかを話すことが出来れば、僕たちは、もっと深い感情のやりとりが出来る友達になれる気がしていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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