満州引き揚げの苦難、油絵に託す 92歳住職「今の日本は犠牲の上に」

西日本新聞 社会面 田中 早紀

 夕焼けの中、髪を短く切った女性が赤ん坊や幼児と一緒に必死の形相で歩く姿が刻まれた一枚の油絵。飯塚美術協会名誉会長の坂本法観(ほうかん)さん(92)=福岡県飯塚市=が、終戦後の満州(現中国東北部)から引き揚げようと駅に向かう人々を描いた。豊かな暮らしを夢見た移住の地で両親は亡くなり、自らも生死の淵をさまよった。「今の日本が多くの人の犠牲の上にあることを忘れないで」。戦後75年。近くまとめる自身の画集に作品の一つとして収める予定だ。

 飯塚市で暮らしていた坂本さんが母と姉2人、妹とともに満州へ渡ったのは1937(昭和12)年。父は満蒙開拓団に応募し、既に現地で働いていた。

 「生きて帰れたのは運が良かっただけ」。こう振り返る過酷な経験は、45年の終戦直後に始まった。当時17歳。開拓指導員訓練所の学生として、家族と離れて暮らしていた。戦争の終わる直前に召集がかかり、終戦3日後に到着した駅で敗戦を告げられた。

 どうにか戻った訓練所でソ連兵に連行され「命令に従わなければ銃殺する」と導かれるままに歩いた。4日間、寒さ、雨を遮るものはなく、動けなくなった者を置き去りにした。収容所では、カエルやヘビを串に刺し、塩をかけあぶって食べた。

 約2カ月で訓練所に戻ったが、「地獄」はここから。高熱を出し、近くの小学校に入った。病に伏せた少年たち数十人が入る大部屋では、大声で「お母さん」と泣きだす者、突然笑いだす者-。シラミの大群がクモの子を散らすように病人から逃げていくと、翌日に必ずその人は亡くなった。安置所に遺体が20~30人分置かれると、馬車でどこかに捨てに行った。

 46年7月、収容所の担当者に「日本へ戻れるぞ」と告げられ帰国。約3カ月後、妹の知人を介し両親が亡くなったことを知った。

 飯塚市で住職として働く傍ら、幼少の頃から絵が好きだったので地元の洋画家に師事し、国内外の風景を描いてきた。

 「当時の満州のイメージを知ってもらいたい」。2007年、母子の油絵を描いた。

 帰国が決まり、ハルビン駅へ徒歩で向かう際、一緒に歩いた人たち。顔は黒ずみ、服もぼろぼろ。幼児すら、自分の生死がこの逃避行に懸かっているのが分かるのか、泣くこともなく母親の手に引かれていた。

 記憶を呼び起こし、一筆一筆に思いを込め、縦130センチ、横160センチの作品を描き上げた。これまで一度美術展に出展した以外は、自宅のアトリエに保管していた。「いずれあの世に行く。自分の知っている限りは記録に残したい」。画集は9月中に完成予定という。 (田中早紀)

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