平野啓一郎 「本心」 連載第315回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「俺は、今でもおかしいと思ってるよ、今の世の中。」と、また岸谷の言葉が過(よぎ)った。僕はそれに、何度でも同意する。そして、その世の中を、彼とは違った方法で変えたかった。それでも、出来れば僕は、子供が、自分の好きな色のビーズだけを、好きな順番で糸に通してゆくように、記憶の中から、ただ楽しかった思い出だけを取り出して、過去から今に至るまでの僕という人間を作り上げたかった。それは、この僕ではない。しかし、僕自身よりも、僕の夢を愛することを、一体、誰が責められるだろうか。

 僕は死の一瞬前に、天国を、あのプールサイドのような場所だと思い描くかもしれない。

 あの日は確か、夕暮れ時だった。永遠に太陽の没しない夕刻で、プールは内からの照明に煌(きら)めいていた。しかし、僕はいつの間にか、その光景を、午後のもっと明るい時間のように錯覚していた。

 そこに、母がいてほしかった。しかし、それだけでなく、未来の誰かも。丁度(ちょうど)今、目の前で飛び立ったあの雀(すずめ)のように飛来する誰か。……

 

 僕は、雀を目で追おうとした。しかし、瞬(まばた)きの隙に取り逃がしてしまって、あとにはただ空だけが見えていた。

「おそくなって、すみません。」

 ティリは、少し頬(ほお)を赤らめて、僕の視界に入ってきた。僕は、雀の出立が、彼女の到着を告げる合図だったことを知った。

「気がつかなくてすみません。考えごとをしていて。――外にしたんですけど、大丈夫ですか? 寒ければ、中でも。」

「いえ、急いで来て、暑いので外で大丈夫です。」

 そう言って、彼女は濃いガーネットのセーターのタートルネックを少し引っ張り、籠(こ)もった熱を逃がした。

「寒くなったら、言ってください。」

「はい。」

 照明のせいで画面越しでは陰りがちだった彼女の顔が、精彩を放って見えた。髪の色も、少し明るくしたのかもしれない。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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