魔翼遂に我が久留米を襲ふ【軍国少年日記】 (2ページ目)

 <所感> 

(1)じっさい火災にあってみると、水が大いに足りない。現在の五六倍もそれ以上もほしい

(2)火災がおこると、近くの家の者は水をかけやうともせず、どこかへ逃げてしまふ。一体こんなことでどうするのか

(3)たとへ燒夷彈であっても、えんがいのある壕が必要だ

(4)敵機が上空にゐるので、初期防火はなかなか容易でない

(5)防空きんぬぐい・手袋・靴等はぜったい必要

(6)燒夷彈がそこゝゝにおちるのに、あぶなくて壕から出られぬ時には、實際涙が出る

(7)街の水槽には、まだ水のたまったまゝ家がやけてゐる。初期防火に敢鬪してゐないしょう

(8)今日の爆撃で市民のてきがいしんはいやが上にも高まったと思ふ

(9)次の爆撃の際には今日のせんくん(を大いにいかして、今日のやうに大火に至らぬやうしたい

(10)これからは、戰災各都市のやうに、小型機の銃撃がはげしくなるだらう。又、サイレンが一時ならぬだらうから、爆音に大いに注意しなければならぬ。

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空襲後の久留米市荘島町付近

 【注釈】久留米空襲は1945(昭和20)年8月11日午前10時20分ごろから始まった。久留米市誌によると、214人が死亡し、160人が負傷、4500戸が焼失。市街地の4分の1が焦土と化し、被災者は2万人に上った。明善校は、明治天皇が1911(明治44)年の陸軍大演習で滞在した行在所など一部を除き、講堂、剣道場、柔道場など木造建物の大部分が焼けた。

 米軍の作戦概要は長い間、謎となっていたが、96年8月11日、本紙は1面でその内容を伝えている。

 明善出身で、自らも久留米空襲を体験したフリージャーナリスト生田保年さん=当時(64)=が、米国ジョージア州アトランタの国立公文書館分室で久留米空襲に関する米軍の作戦命令書や報告書、ちょうほう資料などのマイクロフィルムを見つけた。それによると、当初から人口の多い市街地を狙い、軍施設は標的から外していた。余った爆弾を処分する“駆け込み空襲”だった可能性もある。

 文書によると、空襲は沖縄・読谷飛行場を基地としていた米陸軍航空隊第7空軍の第11、第494爆撃大隊が実施。「B24リベレーター」53機が10編隊、4波に分かれ来襲、40分間で約3万発の6ポンドしょういだんを集中投下した。

 周辺空域には護衛戦闘機や監視連絡機18機、また救難用の潜水艦や飛行艇も待機した。久留米市は、米軍の空襲予定都市の第53位にランクされていたが、目標は国鉄久留米駅や鉄橋、ゴム工場だけで軍施設は入ってなかった。

 文書には「市街地のほとんどが火炎に包まれ、黒煙は7500メートルの上空まで達す。作戦は大成功」とあり、天候不順の時は宮崎市、鹿児島県鹿屋市を目標とすることも記されていた。

 久留米空襲は、それまで戦略爆撃機「B29」による攻撃というのが定説で、米側の公開資料にも「久留米」の項目がなく作戦実態は不明だった。生田さんは「B29ではなくB24の作戦だったので、これまで資料が見つからなかったのだろう」と指摘している。

 また、終戦を前に読谷基地には「使用期限切れ直前の爆弾が山のようにあった」という米軍関係者から直接聞いた話や、米国の大学がまとめた「米陸軍航空隊第2次世界大戦史」の中に「久留米空襲はB29がやり残した空襲の一部で、これで作戦は完璧に成功した」とのくだりがあることから、生田さんは「爆弾の処理や、比較的若い隊員の訓練を兼ねた、打ち上げ的な作戦だったのではないか」と推測している。

 ※福岡県久留米市出身の竹村逸彦さん(89)が14歳だった1945年に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しています

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