開門求めた漁師の死 山本敦文

西日本新聞 オピニオン面 山本 敦文

 「宝の海」の再生を願い続けた一人の漁師が亡くなった。国営諫早湾干拓事業の潮受け堤防排水門開門請求訴訟の勝訴原告、中田猶喜(なおき)さん(長崎県島原市)。クルマエビ漁のため沖に出た漁船の上でくも膜下出血で倒れ、3回の手術を経て今月5日に帰らぬ人となった。71歳だった。

 近くで漁をしていた弟の博文さん(59)によると、猶喜さんが倒れた6月23日の海は風がなく、真夏のような日差しが照り返していたという。

 クルマエビ漁は満潮に合わせて朝と夕に出漁し、網を流す。猶喜さんは1回目の漁で4キロを取った。この時期には珍しい大漁だ。「おお、入っちょるな」。船のいけすをのぞき込んだ博文さんがそう声を掛けると、猶喜さんはうれしそうに笑った。

 「そんまま船の上で網を仕立て直して、夕方に2回目の漁に出た。漁師は魚が取れると力が湧くけんね。兄貴は無理ばしてでも海に出たかったっちゃなかかなあ…」。博文さんはそう振り返る。

 中学卒業後に父の船に乗り、大柄で人懐こい笑顔の猶喜さんは、開門を求める漁師の象徴のような人物だった。

 2002年に有明海の漁民が佐賀地裁に提訴した干拓工事差し止め訴訟に原告として加わり、法廷や座り込みに足しげく通った。訴訟を支援する「有明海漁民市民ネットワーク」副代表を務め、失われた海の豊かさを訴え続けた。

 裁判の長期化は「海に出んと生活できん」漁師の生活を脅(おびや)かしかねない。「いつまでかかっとか」。生前、そうため息をつくこともあった。猶喜さんは3日に福岡高裁であった、国が開門判決の無効化を求めた請求異議訴訟の口頭弁論に駆け付けるつもりだったという。

 長過ぎる時の経過は人々の記憶を薄れさせる。

 広大な干潟が広がっていたころの諫早湾を、23年前の閉め切り後に生まれた市民は知らない。訴訟で「漁獲高は増えている」と主張する官僚も、審理する裁判官もおそらく知らない。春はサクラダイ、冬はクツゾコと四季を通じて豊かだった海の記憶はただ、そこで漁を続けた漁師の胸にしまわれているのだと思う。

 猶喜さんは、海に流した網を船上にたぐり寄せる作業中に倒れた。病院に搬送後、博文さんが兄の代わりに引き上げた網には大量のクルマエビがはねていたという。ほんの一瞬、かつての手応えを感じさせた海に、漁師はどんな思いを抱いたのか-。

 国に開門を命じた福岡高裁判決が確定して今年で10年。有明海再生の糸口はいまだ見えない。 (諫早大村支局長)

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