巧みな外交、日本に親しみ 「台湾民主化の父」李登輝氏

西日本新聞 国際面 上別府 保慶

 「あのころ、少ない味方と話すときは、他には分からぬよう日本語でしゃべったもんだよ」。30日死去した李登輝氏がニヤリと笑いながら述懐したのを覚えている。1988年、思いがけず台湾総統となったころの話だ。

 当時、台湾政界の中枢は中国大陸出身の外省人が固めていた。李氏は日本統治時代の台湾に育った土着の本省人。京都帝大(現京大)で学び、学徒出陣もした経歴は、戦後の国民党による恐怖政治の下では敵として殺されかねず、身を潜めた日々もある。蒋経国氏に農政の手腕を買われて出世し、蒋氏の突然の病死で副総統から総統となったものの、実態は「孤立無援」。外省人エリートたちは政争が決着するまでの“つなぎ”と李氏を軽視した。

 ところが民主化を求める本省人の民意が李氏を後押しした。李氏は非改選の議員が特権をむさぼる議会を改め、中国との戦時体制を敷く法を廃止して政治犯を釈放するなど、「静かな革命」は徐々に加速した。学生運動さえ味方に付け、ついに総統ポストそのものも民選に転換。李氏自らが圧勝して台湾民主制の基礎を固めた。

 外交面では、中台の統一を掲げる中国をけん制し、現状維持の立場を徐々に強化。これは中国の猛反発を招くが、日米による台湾海峡有事をにらむ安保体制の見直しを引き出し、各国世論にも台湾への親近感を培うなど、したたかな外交巧者ぶりを発揮した。

 総統を退いた後、政権交代が続いたが、李氏の針路は今も引き継がれている。政略の深みと意志の強さは、常に外来政権に支配されてきた「台湾人に生まれた悲哀」を身をもってなめてきたからに他ならない。

 その思いは親近感を抱き続けた日本の政治に対する苦言として表れた。「東京でばかりものを考え、視野も狭いし、信念もない」。傑出したアジアの政治家を惜しむ声は、日本にも広くある。

(上別府保慶)

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