「死ぬ一歩手前だった」玉砕、飢餓に耐え1年半 南洋に残された日本兵

西日本新聞 一面 久 知邦 玉置 采也加

「絶対国防圏」の外に置かれて

 日本から4千キロ以上離れた中部太平洋のマーシャル諸島。海軍の通信兵だった国友繁人さん(94)=福岡県太宰府市=は1943年、拠点があったサンゴ礁の島に渡った。乗るはずだった爆撃機は米軍の反攻に遭ってすでになく、補給を断たれた島で1年半、飢餓に耐えた。老いて体も不自由になった今、当時の記憶がより鮮明に心を占める。

 「夕立がトタンに当たる『ザー』という音を聞くと空襲を思い出す。爆弾が落ちてくる音と似とるんですよ」と国友さんは話す。3年前に緑内障で視力を失い、補聴器を着けても右耳しか聞こえない。新聞もテレビも楽しめなくなり、考え事をする時間が増えた。

 軍国少年だった。米国を爆撃したい一心で海軍通信学校に進み、卒業後の43年、日本の委任統治領だったマーシャル諸島のクエゼリン島に配属された。この年から反攻が本格化した米軍に対し、守勢に回った日本は戦線を縮小。本土防衛に必要な範囲を定めた「絶対国防圏」を設定した。同諸島はその外に置かれた。

 米軍は空襲を繰り返して制空権と制海権を奪い、44年1月末、クエゼリン島に上陸。日本軍守備隊は翌月、玉砕した。国友さんはその直前、諸島東部のマロエラップ環礁に渡っており無事だったが、補給路を断たれ、約3千人の将兵たちと飢えに苦しんだ。

 定期便のように来る爆撃機に悩まされながら、パパイアの根をかじり、野ネズミを捕まえて焼いて食べた。海水で製塩し、魚も捕った。「食べられる物は何でも食べた。栄養失調で手や足の甲がぷくーっと腫れ、ほっぺたも下がった。死ぬ一歩手前だった」

 マロエラップ環礁の警備隊司令だった海軍少将が残した戦史資料によると、44年1月に2880キロカロリーあった1日の糧食は5カ月後に半減。45年に入ると千キロカロリーを割り、592キロカロリーしかなかった月もある。武装解除された45年9月までの死者2059人のうち、6割に当たる1251人が栄養失調で亡くなった。

 サイパン島、硫黄島、沖縄…。通信兵だった国友さんは日本が追い詰められていることを無線で聞いていた。本土からはるか遠い太平洋の島で飢えに苦しみ、敵と戦うこともなく次々と命を落としていった日本兵たち。あれから75年、何をしに行ったのかと自問自答してきた。

 家族と囲む食卓。ランチョンマットに置かれた食器を、感触を頼りに手に取り、箸で料理を口に運ぶ。2日に1度の晩酌が何よりの楽しみという。「ああいう生活によう耐えきったな」。しみじみと語った。

(久知邦、玉置采也加)

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