原子力船「むつ」 受け入れに悔し涙 原爆を背負って(48)

西日本新聞

 349席あった傍聴席から、警察官が次々と聴衆を引きずり出していきました。1977年4月30日、原子力船「むつ」の佐世保港受け入れの可否を決める臨時の長崎県議会最終日。松田九郎議長はやじを飛ばす反対派に強制退去を命じたんです。残ったのは被爆者20人だけ。反対意見を無視して進む議会に腹が立ち、思わず叫んでいました。「被爆者の気持ちが分かっているのか!」と。

 60年代、高度経済成長で高まった電力需要に対応するため、日本は原子力発電に活路を求めました。66年には初の商用原子炉が運転を開始。原発推進の象徴として造られたのが、原子力船むつだったんです。

 むつは航行試験中の74年9月1日、放射線漏れ事故を起こします。母港があった青森県むつ市の住民は、事故を理由に帰港を拒否。「漂流」を余儀なくされたむつの修理先として持ち上がったのが、長崎県佐世保市でした。経営難に陥っていた佐世保重工業救済のため、当時の辻一三市長が手を挙げたそうです。

1978年10月16日、警備船、阻止船が入り乱れる中、原子力船「むつ」は佐世保港に入港しました

 被爆県、水産県の長崎で、むつの受け入れは到底認められなかった。被爆者団体をはじめ、漁協や労組などが反対しました。争点になったのが、核燃料「付き」か「抜き」かの問題。核付き受け入れを求める佐世保市に対し、久保勘一知事は核抜きを主張し、反対派の理解を求めました。私たちは核抜きにも反対でした。母港も決まらないのに核燃料を抜けるはずがないと思ったからです。

 「核抜きでの修理、点検を条件に佐世保港へ受け入れる」とする知事の県議会への諮問は、賛成多数で同意されました。核の恐怖を知る被爆者や死んでいった者たちへの冒涜(ぼうとく)だと思うと、悔し涙が止まらなかった。仲間もみな泣いていました。

 78年10月、むつは核付きのまま入港します。心配した通り、母港や費用の問題で核燃料は抜けなかったんです。代わりに出てきたのが、原子炉を休止状態にした「核封印」という詭弁(きべん)。裏では、佐世保受け入れの見返りに長崎新幹線の着工を求めるなど、知事と自民党三役の間で政治取引が行われたといいます。

 「核の平和利用」というまやかしで、原発推進のために何でもありの政府。国に癒着する自治体。県民不在、安全不在のこの国のやり方が、福島第1原発事故につながったんだと思います。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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