中村八大編<474>僕自身の手で

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 昨年末、福岡県久留米市の石橋文化センター共同ホールで、合唱団LLC(ロングライフ・コール)の20周年の記念コンサートが開かれた。「本間四郎卒寿メモリアル」との言葉も添えられている。卒寿は90歳の祝いのことだが、本間は2000年に70歳で死去している。このコンサートの指揮は本間の次男で、音楽家の敬二だ。

 ゲストコーナーの「四(よ)も八(や)ま話」には中村八大の長男の力丸が登場した。「四」は四郎、「八」は八大に掛けたタイトルだ。中村と本間は旧制明善中学(明善高)時代からの親友だ。その後、中村は作曲家、ピアニスト、本間は医師の道を進むが、生涯にわたってその交友は深かった。敬二と力丸は父親たちの交友を語り合った。

 敬二「八大さんが久留米に来られると父の家に泊まった。小さいころは親戚の叔父さんと思っていました」

 力丸「父は(久留米では)くつろいで楽しんでいました」

 八大はヒットメーカーになり、多忙な中でも本間の呼びかけがあれば久留米での各種コンサートには駆け付けた。

 本間は「本業は音楽家、趣味が医師」と、周辺が冗談気味で語るほど音楽が好きだった。指揮者、編曲者として「久留米音協合唱団」を引率するなど戦後の久留米音楽界の基盤を作った一人だ。中村もそれを応援していた。

   ×    × 

 中村は1949年に久留米を離れている。

 「何時は久留米から脱出するであろう日を夢見ていた」

 早稲田大学に進学した。 ただ、なぜ、クラシックを愛した中村は音楽大学に進学しなかったのか。同大には兄が通っていた。力丸は「それは重要なことではありません」と言う。力丸は、当時のクラシックの音楽世界に残る教条主義的な教育手法や権威、徒弟制度的なものへの違和感などを挙げた。

 「市井の人々の心情や、時代の感覚を踏まえたバランスの取れた人間になることが、自分の音楽を実現するために必要だと判断したからだと思います」

 中村は現在のJR久留米駅から上京した。そのときの気持ちを書き残している。

 「いよいよ、僕自身の人生が、僕自身の未来が、僕自身の手で限りなく開けてゆくのだ」

 =敬称略

 (田代俊一郎)

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