芽吹いたちゃんぽんの種 発祥店の歴史

西日本新聞 もっと九州面 小川 祥平

◆ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(8)四海楼(長崎市)

 「落地生根」という中国の言葉がある。古里から離れた地で根を張るとの意味で、この言葉を胸に異国で生きる人も多い。福建省出身の陳平順(ちんへいじゅん)(1873~1939)もその一人。19歳で長崎に渡り、ちゃんぽん発祥の店となる中華レストラン「四海楼」を開いた。戦禍を乗り越え、その味は脈々と伝わっている。

 店は大浦天主堂の程近く、豪奢(ごうしゃ)なビルが目印だ。5階まで上がって、長崎湾が望める大広間に通される。テーブルに着き、さっそく名物のちゃんぽんを注文した。

 熱々のスープから頂いた。まずは炒めた具の香ばしさが立つ。そして鶏がら、豚骨だしが舌を包む。コシと風味のある麺もいい。錦糸卵、キャベツ、イカ、豚肉など食感の違う具材がまた楽しい。

 「この一杯は、受けた善意を次の世代に渡す『恩送り』という曽祖父の理念を具現化したものと思っています」

 テーブルにやってきた平順のひ孫で4代目の優継(まさつぐ)さん(54)はそう語る。そして代々伝わる歴史を教えてくれた。

 平順が来日したのは1892年。裸一貫の若者は同郷の貿易商を頼った。住まいや金銭の援助を受けて生活基盤をつくり、反物の行商で資金を蓄えた。四海楼を創業したのは来日7年目のことだった。

 開業後、すぐに「恩送り」を実践したそうだ。多くの中国留学生の身元引受人になり、彼らのために安くてボリュームのある料理を考えた。古里の豚肉入りの麺料理「湯肉絲麺(トンニィシィメン)」をイメージし、長崎の野菜、魚介類を採り入れて「支那饂飩(しなうどん)」として売り出すと大ヒット。これがちゃんぽんのルーツというわけだ。

 「明治の終わり頃までには、ちゃんぽんという呼び名が定着したようです」と優継さん。由来は諸説あるが「飯を食べる」という意の福建語「吃飯(シャポン)」が有力。1907年刊行の「長崎県紀要」には「書生の好物」として市内に十数店舗ある、と記される。

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 ちゃんぽんの存在を全国に知らしめたのは中央の文人たちの存在が大きい。その代表格が斎藤茂吉である。

 四海楼に陳玉(ちんぎょく)といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来(く)

 19年、医師で歌人の茂吉はそんな歌を詠んでいる。当時、長崎医学専門学校の教授として長崎に居住。「かがやくやうに美しかった」と書くなど、平順の長女で看板娘の玉姫に入れ込んでいたようだ。

 茂吉は芥川龍之介、菊池寛を連れてきた。ほかにも坪内逍遥、吉井勇、辻潤らが訪れ、ちゃんぽんを食している。大正、昭和初期はさながら文化サロンのようだった。ただ、暗い時代の足音は着実に近づいていた。

 満州事変、日中戦争と続く中、華僑への風当たりは強くなる。「それでもだれも祖国に帰ろうとはしなかった。長崎の人を信じていたからだと思う」(優継さん)

 44年に一時廃業。翌年には空襲での延焼を防ぐ「建物疎開」の対象に。2代目の揚俊、揚春兄弟は、父親の平順から継いだ建物を自ら引き倒した。その年の8月9日、上空で原子爆弾がさく裂した。

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 戦後の再建、移転を経て、2000年に現在のビルに建て替えられた。その際、2階の一画に店の歴史をまとめた「ちゃんぽんミュージアム」を併設した。その入り口には、大きく引き延ばした創業当時の写真が掲げられている。

 「これは祖母が肌身離さず持っていたもの。多くを失った中で貴重な一枚です」

 優継さんにとって、ちゃんぽんは「商品」ではなく「文化」だという。それを引き継ぎ、記録するのが4代目の使命と考えている。

 最後にこんな逸話を教えてくれた。ちゃんぽんが定着したころ、特許申請を勧められた。しかし、平順は「日本中の人に食べてもらいたい」と受け入れなかったという。

 平順自身は親類縁者に教えることをいとわず、ちゃんぽんは各地に広がりをみせた。老舗中華料理店である熊本市の「紅蘭亭」、福岡県久留米市の「光華楼」は親類の経営。同じく久留米市の豚骨ラーメン発祥の店「南京千両」は創業者が長崎ちゃんぽんを参考にラーメンを考案したことが知られている。

 「落地生根」を貫いた平順。その根からは今、芽が出て花を咲かせている。 (小川祥平)

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