同僚の遺骨捜して もっと早く取りかかっていたら… 原爆を背負って(56)

西日本新聞

 1986年、定年退職を前に長年勤めた電報局を退職しました。電電公社が民営化し、NTTに移行した翌年のことです。

 背中の痛みが悪化し、体力的にも限界でした。前にも話しましたが、原爆の熱線で焼き尽くされた私の背中には汗腺も皮脂もない。瘢痕(はんこん)という薄い膜で覆われた背中には石灰が沈着し、大きな塊になると膜を突き破って出てきます。このころは次から次に盛り上がってくる塊を取り除くため、何度も手術をしなければなりませんでした。

 電報局は本当に、私によくしてくれた。局長が代わるときは、私のことが引き継ぎ事項に入っていたほどです。治療のために休んでも何も言われませんでしたが、同僚に迷惑をかけるのは嫌だった。被爆者運動に専念したい気持ちもありました。第2回国連軍縮特別総会を経て、国際世論は核兵器廃絶に向かいつつあったからです。

電報局時代は配達で町のあちこちを回りました

 退職して時間ができた私は、あの日に亡くなった同僚の遺骨捜しを始めました。当時勤めていた長崎本博多郵便局は県庁から北が管轄でしたから、爆心地近くで被爆した人が多かった。直接被爆した28人のうち、生き残ったのは私一人。遺骨も何も見つかっていないため、行方不明とされた人が15人もいました。

 あるとき、爆心地付近で被爆した同僚の一人が、旧諫早国民学校に運ばれていたことを知りました。被爆3日目に私も運ばれた場所です。すぐに諫早市まで行き、当時を知る人を訪ねました。同僚はそこで亡くなり、火葬されたといいます。さらに調べると、遺骨は市役所で保管された後、ある寺に引き取られたことが分かりました。

 すぐにお寺に行きましたが、そこに遺骨はありませんでした。住職や檀家(だんか)に聞くと、「いつの間にかなくなっていた」と言う。原爆犠牲者の無縁仏として長崎市に引き取られたのではと思って調べましたが、手掛かりはなし。わらにもすがる思いで向かった警察署でつっけんどんな対応をされ、「ええいくそ!」とあきらめて帰りました。

 半年以上かけて捜しましたが、結局、遺骨は見つかりませんでした。既に原爆投下から40年以上たっていました。もっと早く取り掛かっていたら…。今も心残りでなりません。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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