国会に参考人招致 三つの「ほしょう」 原爆を背負って(58)

西日本新聞

 1968年に成立した「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」は、求めていたものとは全く違った。国の責任も認めず、死没者や遺族への補償もなかったんです。

 各種手当が創設されたことは評価できましたが、厳しい所得制限や年齢制限がありました。68年度の健康管理手当の受給者は長崎市内の被爆者8万2093人のうち、たったの3750人。国家補償の援護法は作らないという自民党の考えが透けて見えました。71年8月、広島の原爆慰霊式典に初出席した当時の佐藤栄作首相は、記者会見で断言しています。「援護法は考えない」と。

 佐藤元首相は74年、ノーベル平和賞を受賞します。確かに、非核三原則を表明し、沖縄返還も果たしました。でも、平和主義者ではなかった。ベトナム戦争で米国を全面的に支持し、日本を米軍の補給基地にしました。沖縄には返還後も基地が残り、今も負担を強いられています。

国家補償の被爆者援護法制定を求め、何度も東京に足を運びました

 海外遊説でドイツに行った際、ノーベル賞受賞者の名を刻んだ碑を見つけました。そこに「佐藤栄作」の名前もあった。ドイツ語を教えてもらい、張り紙をして帰りました。「この人にそんな資格はない」って。

 話がそれました。政府に負けじと日本被団協は行動に出ます。73年11月、当時の厚生省前にテントを張り、5日間徹夜の座り込みを強行しました。底冷えの寒さの中、布団を体に巻いて抗議しました。全国から延べ3千人が参加したかつてない規模の行動だったため、私は宿の手配など後方支援に追われました。

 野党4党も動きます。原子爆弾被爆者等援護法案を作成し、74年に衆院に提出。廃案になりますが、その後も繰り返し提出され、審議が続きました。長崎原爆青年乙女の会の会長だった私も参考人招致され、議員相手に訴えました。「原爆にさえ遭っていなければ苦しむことはなかった30年の過去を償う補償、現在の不安に対して生活と健康を守る保障、再び核兵器の被害者をつくらない保証。この三つの『ほしょう』をはっきりと示してほしい」

 援護法を求める署名は全国に広がり、地方議会でも援護法支持の決議が続くなど、制定機運は熱を帯びていきました。しかし、国は80年、とんでもない考えを打ち出します。「原爆被害を我慢せよ」と言うんです。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。

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