単純でない磁器の物語 古賀英毅

西日本新聞 オピニオン面 古賀 英毅

 「チリン、チリン」。佐賀県伊万里市の大川内(おおかわち)山で買った青磁の風鈴が涼を誘う。澄んだ金属音は磁器ならでは。

 青磁の製造が中国で本格化するのは1800年前の三国時代。日本列島では、まだ弥生土器や土師(はじ)器と呼ばれる土器を使っていた。青磁を含めた磁器は17世紀になってようやく生産が始まる。

 日本の磁器発祥の地といえば同県有田である。朝鮮半島から連れてこられた陶工の李参平が、磁器の原料となる良質な陶石を有田で発見して窯を開いた、というのが一般的な説明だろう。伊万里支局に勤務する以前は私もそう思っていた。だが、物語はそう単純ではなかった。

 李参平が陶石を発見したとされるのは1616年。これよりまだ前という説もあるようだが、とにかくこの年が有田焼の元年とされる。だが、これ以前に磁器が焼かれていたようなのだ。

 同県多久市の高麗谷(こうらいだに)窯。李参平が陶工18人と共に有田に来る前に関わったとされ、磁器片が出土している。その窯跡展が市郷土資料館で9月21日まで開催中だ。初公開のものも含めてその磁器片を紹介する。他の出土品から窯自体の年代は1590年代後半から1610年代とみられる。

 陶磁器史に詳しい佐賀県立九州陶磁文化館名誉顧問の大橋康二さんによると、高麗谷窯で李参平「集団」は日本で最初に磁器の試験焼成をした。まだ絵柄はない。伊万里市の藤川内(ふじのかわち)に移り、絵柄を入れた「染付(そめつけ)」を試験した後に有田に来て、本格的な磁器生産に入る。「磁器の『生産』に成功した所、という場合には有田」と大橋さんは言う。

 本格生産をもって「磁器生産に成功」となると、李参平以外にも気になる人物がいる。武雄(同県)の焼き物の「祖」、深海宗伝(ふかうみそうでん)は以前、この欄で紹介した。その妻が有田焼の母とされる百婆仙(ひゃくばせん)である。彼女は李参平より世代が一つ上とされ、1618年の宗伝の死後、よい陶石があると聞きつけ、陶工千人を引き連れて有田に移り、磁器を焼いたと伝わる。

 18人対千人。千人は大げさとしても、その影響は容易に想像できる。有田が磁器産地となるストーリーは「李参平」だけの単線ではない。そして、それ以上に注目したいのが、双方とも「集団」ということだ。歴史は個人の存在がドラマになりやすそうだが、史実はそう簡単ではない。

 一つだけ動かし難い事実がある。有田・泉山(いずみやま)の良質な原料が多くの陶工を集めたということだ。この山がなかったら、焼き物の歴史は大きく変わった。 (東京支社)

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