被爆を伏せ続けた沖縄出身者 地上戦未経験が「負い目」に

西日本新聞 一面 徳増 瑛子

 広島や長崎で被爆した体験を長く語れなかった人々がいる。沖縄の被爆者も、そうだった。軍需工場があった広島、長崎両市では戦時中、多くの沖縄出身者が働いた。戦後は故郷に戻ったものの、県民の大半が巻き込まれた地上戦を経験していない「負い目」もあって、自らの体験を封印してきたという。戦後75年。原爆の惨状を目の当たりにし、米軍占領下に生きた沖縄の被爆者を訪ねた。

 「沖縄戦に比べれば…」。被爆2世の与那嶺尊(よなみねたかし)さん(55)=那覇市=は、2年前に90歳で亡くなった父浩さんがつらそうにつぶやいていたのを覚えている。

 浩さんは戦時中、現在の長崎市香焼地区にあった造船専門学校に進学。17歳だった1945年8月9日に強烈な閃光(せんこう)と爆風を浴び、空を覆うきのこ雲を見た。翌日から、壊滅した街で負傷者の救護や遺体の搬送に従事。入市被爆だった。戦後は沖縄で被爆者健康手帳を取得したが、きょうだいや親戚には隠していた。

 「沖縄には米軍との戦闘で家族を亡くし、補償も受けられなかった人がたくさんいたから。自分は生き残り、医療手当ももらっていることに罪悪感があったんだと思う」。尊さんは父の心情を推測する。

 沖縄から長崎市に疎開し、4歳の時に爆心地から約1・3キロで被爆した大城(おおしろ)智子さん(79)=沖縄県浦添市=も、被爆者であることを考えないように生きてきた。27歳で被爆者健康手帳を取得しても、原爆の後遺症について相談できる相手は周囲にはいなかった。結婚後、長女を身ごもったときは「生まれるまで毎日不安だった」という。

  ◇   ◇

 米軍統治下にあった沖縄では57年制定の原爆医療法(当時)が適用されず、健康手帳の交付は本土より10年遅れた。原爆症で亡くなると「不思議な死に方をする」と奇異な目で見られ、なかなか理解は進まなかった。

 大城さんが沖縄唯一の被爆者団体「沖縄県原爆被爆者協議会」に入ったのは、還暦を過ぎてからだった。ようやく心境を分かち合えるようになり「被爆者と顔を合わせられるだけでうれしかった」と語る。20年近く沖縄の被爆者の話を聞き取ってきた長崎大核兵器廃絶研究センターの桐谷多恵子客員研究員(39)は「今でも話すのが怖いという人が多くいる。どう沖縄の被爆者の証言を残すのかが課題だ」と指摘する。

 戦後75年の今年、沖縄と長崎は連携を深めた。6月にあった沖縄全戦没者追悼式、今月9日に長崎市で営まれる平和祈念式典には、長崎市長と沖縄県知事がそれぞれ初めて列席する予定だった。コロナ禍で見送られたが、互いにメッセージを交換。沖縄の被爆者は、その「接点」にいる。

 浩さんは亡くなる10年ほど前から小学校などで被爆体験を語り始めた。尊さんも父の思いを継ぎ、原爆と戦後の沖縄を語る役割を果たそうと考えている。

 (徳増瑛子)

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