核なき時代のため 生き抜いた被爆者が叫ぶ「私たち」への警告

西日本新聞 一面 徳増 瑛子

 9日の平和祈念式典で田上富久長崎市長が読み上げた被爆75年の「平和宣言」。その内容を議論する7月の起草委員会で長崎原爆遺族会顧問の下平作江さん(85)は声に力を込めた。

 「被爆者はせっかく生き残っても人間らしく生きることができなかった。核兵器は絶対使われてはならないということを訴えてほしい」

 10歳で爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)で被爆し、母親と姉、兄の3人を奪われた。後に、生きることの苦しさから妹が自殺した。そんな体験を持つ下平さんは、自身が生き抜く意味を「平和を願って発信し続けること」と見いだした。

 その使命感は、多くの被爆者に共通している。

 平均年齢が83歳を超えた被爆者が今、強く抱いているのは「自分たちがこの世からいなくなったとき、被爆地の声は届かなくなるのではないか」という懸念だろう。被爆75年たってもなお核軍縮への動きは鈍く、唯一の戦争被爆国である日本でさえ「核の傘」に頼り続けている。

 なぜ私たちは核兵器を捨て去れないのか-。

 被爆者が訴えたいのは自身の体験の悲惨さだけではない。1発で全てを無差別に焼き尽くす核兵器を再び使うかもしれないという「私たち」に対する警告だ。原爆を75年前の出来事と捉えるのではなく、今の「私たち」の世界と重ねる。そして、被爆者の思いに共鳴することが、核兵器なき時代を実現する唯一の道ではないかと思う。 (徳増瑛子)

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