あの日、何を報じたか1945/8/12【暴爆をはね返した軍都市民 破壊消火に凱歌 いち早く復舊へ進軍】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈十一日久留米地域に来襲した敵機は四波を以て焼爆攻撃を行い十時四十分頃までに脱去したが、この日久留米市民はいち早く待避と次の瞬間における軍官民一体の果敢な初期防火に被害を最小限度にとどめ、敵機何するものぞの意気も高らかに同市に対する最初の敵暴爆を見事に勝ち抜いたが、特に破壊消火によって被害を最小限度に食い止めえたことは特筆すべきで、これは今次空襲に示された大きな戦訓といえよう〉

 1945年8月11日午前10時20分ごろ、福岡県久留米市にB29など米軍機約150機が押し寄せた久留米空襲。終戦のわずか4日前、たった20分ほどとみられる間に、約4500戸が焼失、2万人が罹災し、214人の犠牲者を出した。

 当時15歳だった女性が後年、「本当に恐ろしい生き地獄だった」と記録を残した。悲惨な状況は、ここでもやはり紙面には表れず、また「凱歌」が上げられている。

 白昼の空襲、そして本紙の読者が多い久留米地区ということもあってか、記事には大きな写真が添えられている。向かい合って列をつくり、手前の若い女性はこちらを見て、何かを待っている様子。〈消火に敢闘する久留米市民〉という写真説明から、バケツリレーとみられる。写っている人の多くは女性たちだ。久留米市役所が市内の各学校に相談所を開設し、乾パンの配布などに当たったという記述もある。

 紙面では、この記事の周辺を囲むように新型爆弾の続報が配置されている。〈戦友愛で包む握り飯〉という記事は記者の署名付き。〈広島駅付近にさしかかると十一、二歳と思われる少年がやってきて「お父さんもお母さんも行方が分からぬので尾道の母の故郷を探し求めていきます」子どもながら両親を失った悲痛な気持ちをぐっとおさえ、シャツ一枚で上り電車に元気に乗り込んでいった〉と伝えた。(福間慎一)

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 〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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