終戦わずか4日前…父亡くした爆撃 「悲しみは消えない」79歳の訴え

西日本新聞 佐賀版 星野 楽

 終戦のわずか4日前に爆撃を受けた「鳥栖空襲」から75年を迎えた11日、佐賀県鳥栖市のJR鳥栖駅近くにある頌魂碑(しょうこんひ)前で犠牲者を追悼する慰霊祭が営まれた。幼少期に空襲を体験し、国鉄職員だった父を亡くした原武宏康さん(79)=同市弥生が丘=は毎年参列。過去には遺族の高齢化などで中止する話もあったが、「空襲を忘れないために、慰霊祭は続けてほしい」と訴えている。

 宏康さんは、4歳の時に空襲に遭った。鳥栖電力区工手長だった父の鳥雄(とりお)さんと母のミサヨさん、兄と妹2人の6人家族。駅近くの鉄道官舎で暮らしていた。

 「あの日は暑い一日だった」。宏康さんは朝から兄や友人と近所の防火用水で水遊びに興じていた。父はすでに仕事に出ていたという。午前10時半前、空襲警報が鳴り響いた。急いで自宅に戻り、母や兄妹と官舎の防空壕(ごう)に駆け込んだ。3波にわたる空爆は数十分間続き、民家や駅の詰所を焼き払った。米軍機が去り、官舎に戻ると「屋根が穴だらけでびっくりした」。

 その日の夕方、電力区の防空壕で生き埋めになり、力尽きた鳥雄さんが発見された。遺体は壕の入り口付近にあったという。その奥から学徒動員の女子生徒も発見された。「父は最後に避難し、壕の中で点呼を取っていたと聞く。責任感が強い人だったのだろう」。空襲の前日には父と一緒に風呂に入った。「優しくて家族思いの人だった」。あれから75年。当時の記憶は徐々に薄れてきたが、父の姿を忘れたことはない。

 11日午前10時半、雨が降りしきる中、同市藤木町の頌魂碑前には遺族や鉄道職員ら約20人が参列した。慰霊祭を主催するJR九州鳥栖電力区の原博文区長(44)は「今年は新型コロナの影響もあり、開催すべきか迷ったが、遺族の苦労などを若い職員らに伝えるのが使命だと感じて決行した。開催してよかった」とあいさつし、来年以降も続ける意向を示した。

 碑には、鳥雄さんを含む電力区職員7人と、動員学徒6人の計13人の名前が刻まれている。慰霊祭で手を合わせた宏康さんはこう語った。「傷ついた側の恨みや悲しみは、いつまでも消えない。だから戦争は絶対にしてはいけない」 (星野楽)

【ワードBOX】鳥栖空襲

 1945年8月11日午前10時半ごろから同11時前後にかけて、鉄道施設や笠井倉庫(現・鳥栖倉庫)、日清製粉鳥栖工場などを襲った米軍による爆撃。鳥栖市によると、空襲は沖縄の基地から飛び立った2部隊によるもので、最初は攻撃機32機が襲来。その後、爆撃機48機が爆弾を投下した。当時から鉄道輸送の要地で、軍需関連施設が集中していたことが、攻撃を受けた要因と考えられている。犠牲者数は少なくとも119人、民家の全壊36戸、被災者は約3200人に及んだとされる。

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