「自分だったかも」防空壕26人生き埋め チッソ空襲の犠牲者追悼

西日本新聞 熊本版 村田 直隆

 日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場が米軍による空襲で壊滅的な被害を受け、裏山の防空壕(ごう)で従業員ら26人が犠牲になった悲劇から75年。7月末、チッソの事業子会社JNC水俣製造所が開いた慰霊式には、空襲当時に別の防空壕に避難して助かった元社員中村和博さん(97)=熊本県水俣市=が初めて参列。「ここに来ると、人の命をいとも簡単に奪う戦争のむごさを思い出す」と振り返った。

 チッソ社史「風雪の百年」などによると、同社は戦中、爆薬の原料など軍需物資を生産する化学工場として米軍の標的となった。水俣工場は、1945年3月29日から8月10日まで計7回空襲を受けた。

 特に被害が大きかった7月31日は、B25爆撃機24機が3回爆撃を繰り返し、工場内に500ポンド爆弾72発を投下。大半の設備が被害を受けながらも、工場内での人的被害はなかった。ただ、裏山の横穴防空壕の入り口に爆弾1発が命中し、避難していた従業員や壕を掘削する作業員26人が、生き埋めになり亡くなった。

 硝酸工場で働いていた中村さんはこの日、出勤したが空襲警報が出ていたので、仕事をせず控室で横になっていた。午前11時ごろ、同僚から「爆音がだいぶ近くなってきた」と起こされた。普段避難する防空壕とつながる別の壕を掘っていたことを思い出し、そちらに向かった。

 敵機が急降下し、機銃掃射とともに突っ込んできた。壕に駆け込むと、すでに従業員ら20~30人が避難していた。同僚から「おまえのせいでこの壕が敵機に見つかった。出て行け」と怒鳴られたが、すでに外に出られる状況ではなかった。この壕の上には旧陸軍の高射砲陣地があったという。

 爆撃は20分近く続いたが、中村さんは「恐怖でもっと長く感じた」。大半の建物は屋根が吹き飛ばされ、曲がった鉄骨がむき出しに。アンモニア合成工場のタンクがひしゃげた光景が目に焼き付いている。

 爆音が途切れた直後、朝鮮人の少年が「アイゴ」と叫びながら壕に入ってきた。言葉は分からないが東の方角を指していた。一緒に向かうと、前日まで自分が避難していた壕の入り口が土砂で埋まり、土砂搬出用のトロッコの線路がぐにゃりと折れ曲がっていた。

 すぐに少年とスコップで土砂をかき分けたが、上から土砂が崩れ落ちて掘り進めない。夕方まで約30人で作業を続け、駆け付けた駐屯中の軍隊と交代したが、状況は変わらなかった。生き埋めになった26人全員が発見されるまで1週間かかったという。

 JNC水俣製造所によると、防空壕に対する記憶の風化が進んでいたが、存在を知る従業員が位置を特定した6年前に慰霊碑を建立。毎年7月31日に慰霊式を営んでいる。

 23年ぶりに壕跡を訪れ、慰霊碑の存在を初めて知ったという中村さん。感慨深げに線香を手向け、つぶやいた。「あの時、生き埋めになっていたのは自分だったかもしれない」

(村田直隆)

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