「佐賀空襲」を後世に伝える 佐賀市の男性、当時の体験を映像で証言

西日本新聞 佐賀版 北島 剛

 太平洋戦争末期に現在の佐賀市南部を襲った「佐賀空襲」から75年がたった。当時、県立佐賀中学1年だった福田繁文さん(87)=佐賀市今宿町=は、今月6~9日に佐賀市立図書館で開かれた佐賀市平和展で、当時の体験を映像で語った。「今の子どもたちに伝えたいことがあります。佐賀の片田舎でも戦争の苦しみを味わい、今も忘れることなく後世に伝えたい年寄りがここにいることを…」

 1945年8月5日、福田さんは父親から「今日は空襲があるかもしれない」と言われ、旧新北村(現在の佐賀市諸富町)の自宅の母屋ではなく、別棟の燃えにくい土蔵で寝ていた。夜中にサイレンが鳴り、飛行機の爆音と爆弾のさく裂音が聞こえ、火の手が上がるのが見えた。幼い弟は怖くてがたがたと震えていた。

 自宅の被害は免れたものの、農村地帯は一変。翌朝、中学校まで向かう途中、あちこちの集落が燃え、被災者がぼうぜんと立ち尽くしているのを見た。終戦後の2学期には、戦災被災地でがれきの撤去作業をしたことを覚えている。

 なぜ佐賀の農村地帯が狙われたのか。戦後、米軍の資料を調べると、中心市街地を狙ったが、夜間で目標を誤ったことを知った。さらに成果がなかったとも書かれてあった。多くの死者を出し、家を焼け出された人がいたにもかかわらず。

 「佐賀は空襲に遭わなかったから古い町並みが残っていると言われる人もいるが違う。佐賀でも空襲の被害はあった」と訴える。

 北川副まちづくり協議会の会長を務め、空襲を風化させないように平和の集いを開いた。16年に脳梗塞となって役職を退いた後も、県内の小中学校などで空襲の体験を講演してきた。

 今年の市平和展は、新型コロナウイルス感染予防のため、事前に証言を収録した映像が会場で放映された。話を聞いてくれる人が見えないもどかしさ。「できれば思いを直接訴えたかった」と残念がる。

 「今更、戦争なんてないだろう」という声も聞くが、そうではないと思う。「戦争の悲惨さやむなしさは過去のことではない。二度と繰り返さないために、次の世代に伝えていく責務がある」 (北島剛)

 【佐賀空襲】1945年8月5日午後11時半過ぎから6日午前1時ごろにかけ、米軍のB29爆撃機が佐賀市の北川副町や諸富町一帯に焼夷(しょうい)弾などを投下した。市民団体「佐賀空襲を記録する会」によると、死者61人、焼失家屋は443戸に上る。北川副国民学校(現在の北川副小)も被害を受けた。空襲前には、降伏を呼び掛ける文書がばらまかれたとされる。

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